鵯尾城
鳥取県鳥取市玉津

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  八頭郡智頭町から53号線を北上、河原町を越えて32号線に入り、千代川の「新円通寺橋」を渡らずに川の西側をそのまま42号線(鳥取河原線)を北上します。

倭文(しとみ)から西側の玉津集落へと入りると、標高260m(比高180m)の山頂に鵯尾城(ひよどりお)があります。

2004年5月、山名氏・尼子氏・毛利氏が渦巻いた鳥取の城跡、まだまだ渦全体は分からないけど、一本の糸だけは解いてくれた城跡なのです。

 
  ここから鳥取城、山中鹿之介の甑山城(こしきやま)、毛利氏方の吉岡氏が守った防己尾城(つづらお)、そして山名氏の天神山城が見えます。

何故、但馬の山名氏、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏が鳥取に集まっているのかな。

鳥取県のお城、「何故」を一つ一つをほぐしてみたいよね。
 

 


玉津南西に位置する268mの峰を中心として、周辺の尾根や尾根続きの峰に、郭群や空堀り跡等も認められます。因幡南郡と北郡を結ぶ交通の要衝にあり、北東方の鳥取城と鳥取平野を一望できます。

築城年代は不明、当城と鳥取城は武田高信の拠点であり、特に南因幡方面からの侵攻に備える戦略拠点であったと考えられます。

武田氏は天正元年(1573)八月、因幡へ侵攻してきた尼子氏の家臣、山中鹿之助のこもる甑山城(こしきやま)を攻撃するが敗れ、尼子氏と連携する山名豊国に鳥取城を明渡し、当城へ移ったと云われています。

天正二年の毛利輝元書状に「鵯尾」と書かれ、鹿野城在籍中の野村士悦は尼子勢再侵入後の因幡の状況を報告し、鳥取城・鵯尾城が「堅固之由」と伝えています。

この段階で高信の鵯尾城在城の有無は不明ですが、翌三年三月には豊国が当城を掌握し、五月には毛利氏から徳吉に検使として派遣され在籍していた山田重信の支配下に置かれ、この頃高信は当城を追われていたと推定されます。

高信誅殺を企てた山名豊国は天正六年八月、智頭の草刈伊豆守追討ちを理由に出陣し大義寺(河原町)に本陣を置きました。

当時、高信は鵯尾城に居ましたが、豊国に合力を依頼されて当寺に赴き、豊国の家臣によって討たれたと云えられています。

『現地案内を参照』

 

  
集落から山合いへ
 

「集落から山合いへ」

集落を通り抜けると、鵯尾城が見えてくるよ。

お城は向こう側の山。 ここから更に山合へと入っていきます。

近づくにつれ、少し緊張。 一人、それ以上の無言の世界へと入っていくようです。

 
大手道の鳥居
 

「大手道の鳥居」

道の最終地点だよ。

ここまで車で来れる、地面は舗装されて白く光っている。

ここから本丸まで1kmぐらい、さあ鳥居をくぐって、山に入っていくよ。


山麓の石垣
  間もなく石積がされた所、屋敷跡かな。

3段か4段ぐらい、それも一つ一つが広いよ。 もう声は出ないくらいの溜息。 無言で「すごい」だよ。
 
登山口
  「登山口」

石垣の奥、ここから山を登ります。

本丸まで900m、ここも屋敷跡だったのかな。

鵯尾神社(ひよどりお)
  「鵯尾神社(ひよどりお)」

最初の鳥居から400mの所、少し休憩だね。

五月の鳥、鳴いてるけど静かだよ。
 
城跡全体がうまく説明できないよ。 現地にあった下の案内図を見てね。
 
案内図
  「案内図」

右下の所が「鵯尾神社」、そこから丸太の階段を登ります。

「もうすぐ頂上かな」「早く着かないかな」、ひたすら無言で足元の丸太だけを見つめて歩く。

何気なく登っているけど、この山に登れた事、それは丸太や案内を付けていただいてるからだよ。 ほんとうに感謝です。

馬場跡
  やっと尾根の馬場跡に着いた。

鳥取砂丘・鳥取城の方向です、何度か行った所だよ。

別の場所から過去の場所を眺める。 双眼鏡には砂丘を歩いてる自分が見える、城跡探索は自分の過去をも見ているようだね。

今度、砂丘に行った時に「鵯尾城」を見てみるよ。 きっと、ここには双眼鏡で覗いてる自分が見えるよ。

歴史の全体は、お互いから見ないと分からないよね。
 
本丸
  三の丸、二の丸をひたすら歩いて、案内図の左上まで来ました。

広いよ、一周してみた。

武田氏、あの信玄の武田氏と関係があるのかな。 今回の探索では、解けない糸のままだよ。

鵯尾城の眺め
  降りてきた、最初の鳥居があるところです。

2004年5月の探索、また一つ鳥取のお城が分かりました。

でも「何故」は、本を読んでもなかなか分からないよ。

全体に絡まった渦は、いかに沢山の城跡から双眼鏡に映る自分を見つけるかで、一本づつ糸がほどけていくんだよね。

城跡探索