築山館
山口県山口市上堅小路

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新幹線新山口駅から山口線で北へ走る。 山口駅で降りる、とにかく北へ歩いて20分、県庁の山口城から東へ歩く、八坂神社のところが築山館(つきやま)だね。

城と旅シリーズ、2007年8月は 「山口への旅」。 城跡探索、やっと大内氏が登場してきたよ。

 
  大内館の北、八坂神社のある所だよ。

大内氏十三代・教弘が構えた別館です。

西の京都として繁栄した大内氏、ここではその滅亡を書いてみるね。

 
義弘の時代、明徳の乱では山名氏清討伐の功績で周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊を領し、子・教弘、孫・義興の代には安芸・石見の守護となります。

義興は九州の少弐氏・大友氏と戦い、のち出雲の尼子氏と争うのです。

明応八年(1499)、足利義稙が将軍職を追われて山口に下向、義興は手厚くもてなし、義稙を将軍職に復帰させ、その十年間は京都に住んでいました。

その隙を狙い、出雲の尼子経久が安芸に侵入、義興は帰国し戦うのです。

義興の後・義隆は、尼子氏が毛利氏の本拠地である吉田郡山城へ侵攻してきた時、周防守護代・陶隆房や長門守護代・内藤興盛を派遣し、尼子氏を撃退しました。

さらに出雲へ攻め入るのですが敗北、その後、戦いをやめ築山館で学問や芸能に没頭するのです。

やがて家臣の陶隆房と相良武任が対立し、陶隆房は杉重知・内藤興盛らを味方につけ、築山館の義隆を襲います。

義隆は長門へ落ち延び、大寧寺で自刃、そして大内氏は滅亡していくのです。

『参考文献を参照』

 

  
 

「築山神社」

祀神は教弘、遺言によれば甲冑・太刀・弓・槍などを埋めて、大内家の守護としたらしい。

境内には、「盃状穴が刻まれた巨石」がある、思わず見つめてしまう。

少し南に歩けば大内氏館、行ってみるね。

 
  「瑠璃光寺」

北へ歩く、香山公園そして五重塔、西には毛利家の墓所がある。

大内義弘が応永の乱で戦死、弟・盛見が菩提を弔うために建立したのが香積寺。

毛利氏が萩に移る時、瑠璃光寺が入り、その時五重塔は壊されそうになるんだ。

でも町民の願いで残されたそうだよ、ここも残って良かったね。