兵庫県の幕末史跡

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No.
史 跡
名 称
一口メモ 
所在地
1 神戸海軍操練所跡碑 元治元年(1864)、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟により神戸に設置されました。 神戸市中央区新港町
    
 2 神戸事件発生地 トア・ロード南端にある三宮神社で、慶応4年(1868)、神戸事件が起こりました。
隊長の滝善三郎が、兵庫の永福寺で6ヶ国の立会人が注視するなかで切腹となったのです。
神戸市中央区三宮神社
     
3 滝善三郎の碑 慶応4年(1868)備前藩兵が大砲を引いて西国街道を通過中、三宮神社前で行列を横切ろうとしたフランス水兵を槍で以って刺傷させた(神戸事件)で滝善三郎が切腹しました。 神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39
      
4 皇女和宮様之像 和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で六歳にして有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)と婚約をされました。
しかし幕府の強い要請で、有栖川宮熾仁親王との婚約を破棄し、17歳で徳川幕府の十四代将軍・家茂に嫁がれました。
神戸市須磨区一ノ谷町2-6-35
   
 5 河合耆三郎 誕生の地 河合耆三郎(きさぶろう)は、新選組隊士・勘定方でした。
慶応2年2月12日、隊の資金数十両を紛失したとして粛清されたとされるが、真相は明らかではありませんでした。 享年29歳。
高砂市高砂町今津町
       
 6 姫路藩
勤王志士終焉之地碑
「甲子の獄」と呼ばれる、この地には姫路藩の獄舎があり、元治元年(1864)12月26日、勤王派の志士8名が処刑された所なのです。 姫路市塩町149
    
 7  姫路藩
勤王十二士の墓
船場別院本徳寺の本堂の裏には、勤王十二士の墓があります。 姫路市池内町本徳寺
      
 8 姫路の尊攘志士 文久2年(1862)より藩内に尊皇攘夷派が台頭し、元治元年(1864)「甲子の獄」で60余名が厳しく取りしまりをうけ、反幕政治運動は終焉を迎えました。
河合惣兵衛は自刃、養子・伝十郎は斬首刑に処せられました。
姫路市坂田町5
     
 9 河合惣兵衛邸跡  河合惣兵衛は、姫路藩尊攘派の領袖(りょうしゅ:人を率いてその長となる)として活躍していましたが、元治元年(1864)「甲子の獄」に連座して禁固を命ぜられ、のち獄に下ります。 姫路市神屋町4丁目39
     
 10 河合惣兵衛記念碑 昭和20年敗戦後、碑石のみが護国神社本殿東側に放置され、寂しく苔むしていました。
明治100年に当たり、河合惣兵衛氏の偉勲を偲び、且つこれを永く後世に伝えていきたく再建をしています。
姫路市北条口5丁目86
    
11 亀山本徳寺 明治6年(1873)、京都西本願寺の北集会所が移築されました。
慶応元年から3年まで(1865−67)、北集会所は新選組屯所として使われ、今でも北の縁の2本の柱には刀傷が残っています。
姫路市亀山324
    
12 網干 勝海舟の碑文 加藤家に秀碑があり、題字は幕府海軍を育てた勝海舟の筆だそうです。 姫路市網干区52
    
13 大鳥圭介生誕の地 大鳥圭介が生まれた所です。
岡山県備前市の閑谷学校で儒学を学び、20歳で大阪の緒方洪庵の適塾、22歳で江戸の坪井塾にて蘭学・西洋医学・兵学を学びました。
赤穂郡上郡町岩木丙石戸
    
14  大鳥圭介像 戊辰戦争では幕府軍を率い、北関東や会津で苦難の戦いを重ね、函館では榎本武揚、土方歳三らと共に官軍と戦うも、五稜郭で降伏します。 赤穂郡上郡町大持278
      
15 生野義挙
志士最期の地
文久3年(1863)10月、尊王攘夷派の志士たちが生野代官所を襲いますが失敗します。
美玉三平と中島太郎兵衛が逃れる途中、この地で命を落とすのです。
宍粟市山崎町木ノ谷264
    
16 中條右京・
長曾我部太七郎
終焉の地
澤宣嘉(さわ のぶよし)、平野国臣、南八郎(河上弥市)など36名が、生野挙兵を企てました。しかし計画は失敗、追上峠から姫路街道を落ちた中條、長曾我部両名は農兵の銃弾で撃たれたのがこの場所です。 神崎郡神河町猪篠
    
17 生野義挙碑 文久3年(1863)10月、生野義挙が起きたことを後世に伝えるため、生野代官所敷地の一部に建立しました。 朝来市生野町口銀谷
        
18 生野代官所 生野義挙の時、尊王攘夷派の志士たちが生野代官所を襲い占拠します。
生野義挙碑から東へ、鍛冶屋町通りの案内板の所だよ。
朝来市生野町口銀谷
    
19 延応寺 文久3年(1863)、澤宣嘉、平野國臣、南八郎(河上弥一)ら二十数名の志士が尊王討幕の兵を挙げました。
義挙の前夜、一行が終結、謀議した生野義挙由縁の地です。
朝来市 口銀谷83-1
     
20 山田顕義終焉の地 弘化元年(1844)長州藩士・山田兵衛の嫡子として山口県萩市に生まれました。
明治25年(1892)、生野鉱山を視察中三番杭において不慮の事故で命を落とすのです。
朝来市生野町口銀谷
    
21 生野義挙志士殉難の地 文久3年(1863)、大和義挙が不成功に終わるとともに生野義挙も失敗に終わりました。
戦に敗れた南八郎以下13人は、この地の山伏岩に「今月今日討死」と血書して8人は切腹し、他は附近で討死にしました。
朝来市山口上山2
    
22 西念寺 文久3年(1863)10月13日、生野代官所の本陣を出た南八郎らは、午後2時に山口村に到着します。
ここ西念寺に陣を構え、兵糧、軍器を運搬するための人馬の準備を命じたと云われています。
朝来市山口124
    
23 佐中千年家 生野義挙に加わり、武器調達係であった進藤俊三郎の生家です。
のち原六郎と改名し、明治維新後は欧米に留学、経済学や銀行論を学び、経済界で活躍しました。
朝来市佐嚢1283
    
24  中嶋太郎兵衛・
黒田與一郎の顕彰碑
文久3年(1863)、中島太郎兵衛と黒田與一郎兄弟らは生野代官所を襲いますが失敗し、中島太郎兵衛は自刃、黒田興一郎は京都六角獄舎中で病死、兄弟の生家の近くに碑が建立されています。 朝来市和田山町高田
    
25 小山六郎事績碑 天保6年(1835)、大月村(朝来市山東町)の農家に生まれ、文久3年(1863)、生野義挙の際には中島太郎兵衛・北垣晋太郎らと農兵組織に尽力しました。 朝来市山東町楽音寺
      
26 大川藤蔵殉難之地 文久3年(1863)生野義挙の際、妙見山本陣に向かい、南八郎に本陣解散を伝えましたが聞き入れられず下山、農民達に追われサケジ谷の岩の上で自刃します。 朝来市山内413
    
27 青谿書院(せいけい) 但馬聖人といわれる池田草庵の私塾で、草庵が35歳の弘化4年(1847)から明治11年(1878)まで開講しました。 養父市八鹿町宿南171
    
28 養父神社 文久3年(1863)9月5日、農兵組立ての第1回会議が普賢寺(現:社務所)で行われました。
中島太郎兵衛、弟・黒田興一郎十、北垣晋太郎、山崎甚兵衛、小山六郎らは農兵組立て運動に奔走しました。
養父市養父市場840
    
29  平野國臣・横田友次郎
捕縛の地
文久3年(1863)、生野の変で倒幕挙兵、しかし失敗し、鳥取に向けて逃亡、城崎へ向かう途中、旅籠京屋で豊岡藩兵に捕縛されるのです。 養父市八鹿町上網場
      
30 北垣晋太郎の生家跡 文久3年(1863)、平野国臣、南八郎(河上弥一)たちと、生野代官所を占領する「生野の変」を企てましたが失敗します。
国指定天然記念物「建屋のヒダリマキカヤ」があるところが生家と云われています。
養父市能座
    
31 多田弥太郎顕彰の碑 生野義挙に、高橋甲太郎・中条右京と共に参加、しかし敗れ長州へ落ちのびました。
弥太郎は八鹿町寄宮の駅で藩吏(はんり:役人)に捕われ、出石に送られる途中浅間峠において惨殺されるのです。
豊岡市出石町暮坂
  
32 桂小五郎居住跡 元治元年(1864)の「禁門の変」で、幕府方が勝利、長州藩は朝敵となり、追われた桂小五郎が隠れ住んだ住居です。 豊岡市出石町宵田
 
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