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毛利季光(すえみつ)の墓
大江広元の四男にあたり、長州藩主毛利氏の祖となる人物です。
朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功をあげ、幕府の評定衆に就くなど重用されました。
北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)では、妻の実家である三浦氏につき、敗れた三浦一族とともに法華堂で自刃したといわれています。 |
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大江広元の墓
広元は幕府の政所初代別当を務め、頼朝の側近として幕府創設に貢献しました。
公家出身の広元は、鎌倉と京都の貴族との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も北条政子や二代目執権・北条義時を支えました。 |
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島津忠久の墓
幕府の御家人で、薩摩藩主・島津氏の祖に当たります。
忠久の祖母が頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞として南九州島津荘の惣地頭に任じられました。
安永8年(1779)、島津重豪(しげひで)が頼朝の墓に近いこの地に墓を造営しました。
『現地案内を参照』 |