女院は子の一条天皇の御所として修造し、長保元年(999)の内裏焼亡(一条天皇の代には内裏が三度焼亡)から寛弘8年(1011)の崩御まで里内裏として使用されてきました。
東の別納は藤原道長・中宮彰子父娘の直盧(じきろ:宿泊所)が設けられました。
中宮彰子に仕えた紫式部が日記に書いている内裏は、この一条院内裏で、一条天皇時代の文化サロンの舞台となりました。
なお、当地は南北朝時代、後醍醐天皇を擁護して鎌倉幕府の討幕に貢献し、建武新政の要職に就いた名和長年が、天皇方と足利方の京都合戦により建武3年(1336)6月30日に戦死した終焉の地と云われ、現在は名和童公園になっているのです。
『現地案内を参照』
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