采女町は、采女の宿所や詰所として用いられた施設と考えられ、天皇が日常の食事をする内裏後宮に近いこの付近にあったことが、陽明文庫本「宮城図」などからわかっています。
長和2年(1013)には、西に隣接する内膳司とともに焼亡したことが「日本紀略」にみえます。
この付近は采女町の南東部に当たるが、これまでに本格的な発掘調査が実施されておらず、采女町の建物や施設の遺構は発見されていません。
この付近の試堀調査や立会調査では、現在の地表から0.8〜1m下で、平安時代の遺物を含む地層が確認されており、土師器、須恵器、緑釉陶器(りょくゆうとうき)、灰釉陶器、黒色土器や瓦など、平安時代の遺物が出土しています。
『現地案内を参照』
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