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後醍醐天皇は京都へ入り、自ら政治を行うこととなりました。(建武の中興)
しかし武士が不満を持ち、足利尊氏は将軍となって反旗を翻えします。
尊氏は一旦は九州へ敗走するのですが、勢力を回復し、京都を目指します。
途中、神戸の湊川にて、楠木軍は700騎の手勢で尊氏勢を迎え撃つのですが、激しい戦いでわずか73騎となるのです。 |
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徳川光圀公御像碑
徳川光圀公は、元禄4年(1691)水戸の藩主を辞して、西山荘に隠退し、大日本史の編纂に着手されました。
翌元禄5年、大楠公を景仰して「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、その御盛徳を天下に顕彰されました。 |
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楠木正成公墓碑
延元元年(1336)5月25日、一族十六騎、郎党六十余人と共に自刃。
その地に湊川神社が創建されるのです。
『現地案内&Wikipedia参照』 |
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