|
|
神功皇后が外征の際、大己貴命の冥護(みょうご:加護すること)を得て、敵を平らげ、凱旋の途、鹿子(かこ)の水門に泊まられた時、「ここは広く西国を見渡し近く、畿内を護るに適したよい処である。 われこの地に留らん」との御詫宣により、大己貴命を祀られたのが始まりです。
のちに、圓融天皇の天禄年間(970−972)、国内で疫病が流行し、庶民が苦しんでいる時、素盞鳴命と奇稲田姫命を合わせ祀ったところ、疫病がおさまったと云われています。 |
|
|
|
高砂神社が創建されてまもなく境内に一本の松が生い出て、その根は1つの雌雄の幹左右に分かれていたので、見る者は神木霊松などと称していました。
ある日、尉と姥(じょうとうば)の二神が現れ「我は、今より神霊をこの木に宿し、世に夫婦の道を示さん」と告げられました。
それから人は相生の霊松と呼び、この松を前にして結婚式をあげるようになるのです。 |
|
|
|
工楽松右衛門像
高砂神社の東側の漁師・宮本長三郎に養子として育てられます。
42歳の時、従来の破損しやすい脆弱な帆に代わり、木綿を使った厚手大幅物の帆布の織り上げに成功、「松右衛門帆」として全国に普及しました。
また蝦夷地エトロフ島や函館港など各地の港の建設や改修を行った人物です。
『現地案内&工楽松右衛門公式サイトを参照』 |