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昭和16年に八幡神社の地中より故意に破壊された多数の五輪塔の残欠が発掘されました。
その一部に「永禄五年六月」「天正十四年正月十四日」「妙性霊位」あるいは「缶禅定門」などの文字が刻まれ、石田三成公に深い関係があるものと推定されました。
おそらく関ケ原合戦直後の里人が、徳川方の追求を逃れるため、神社を隠れ蓑に、密かに埋め隠したものと思われます。 |
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さらに「これに触れると腹が痛くなる」と伝えられていましたが、顕彰会の手で発掘され、その後もこれらの墓石を仮の墓所で30余年間供養して参りました。
昭和48年11月、地元はもとより全国600数十人の石田三成公に理解ある方々の浄財を以って、墓所を整備改め墓石を安置しました。
新たに石田三成公及び、一族家臣の供養塔を建立し、公の霊を慰め、一層事蹟の顕彰をすることになりました。 |
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石田三成公辞世の歌
筑摩江(ちくまえ)や 芦間(あしま)に灯す かがり火と ともに消えゆく わが身なりけり
歴史に「もし」は無いと思う。
時がその時刻なると、その場所で、定められてた事象が展開されているだけだと思う。
『現地案内を参照』 |