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観応2年(1351)2月、足利尊氏と直義の争いが表面化し、中国筋平定のために書写山に依った尊氏を討つべく、直義方の石塔頼房は五千余騎で光明寺本堂などに陣を構えます。
一方、尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を置き、光明寺を囲みました。
往時の光明寺は、表参道や仁王堂が南の山腹にあり、尊氏と愛曽伊勢守が激しく戦ったのは、仁王堂付近と云われています。 |
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閼伽井の水(あかい)
この光明寺合戦の時、足利直義方の愛曽伊勢守に仕える小姓が、神がかりで十丈ほど飛び上がり、
「私は伊勢大明神で、この城を守るため三本杉の上にとどまっている。
私がいるかぎり落とすことはできない。
高師直・師泰らは七日内に滅びるであろう。 ああ熱い、この三熱の炎を冷まそう」と叫び、井戸に飛び込みました。 |
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おかげで直義方は防戦し、仁王堂や東坂の激戦では尊氏勢が敗れます。
両軍の対峙は十日におよび、のち尊氏と直義は和睦しました。
そして高師直と師泰兄弟は摂津の鷲林寺で処刑されるのです。
『現地案内を参照』 |