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以後、明治維新まで約千年間、皇子皇孫が門跡として法燈(仏法がこの世の 闇を照らすこと)を伝えました。
その間、応仁の乱の戦火で全伽藍を焼失し、双岡西麓(ならびがおか)に仮御所を設けた時期もありました。
現在の伽藍は、江戸時代初期に徳川幕府の協力を得て再建されたもので、御所の紫宸殿(ししんでん)を移した金堂をはじめ、清涼殿の古材を用いて御影堂(みえどう)が造営され、観音堂、鐘楼、五重塔、経蔵、仁王門なども整備されました。 |
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宇多法皇は、天皇即位後の寛平3年(891)2月、菅原道真公を蔵人頭(くろうどのとう)に補任いました。
蔵人頭は近臣ともいえる職で、道真公もその期待に応え、天皇の治世を支えます。
道真は延喜元年(901)2月1日に大宰府に向かう事が決定しました。
その前に宇多法皇に最後のお別れに来られましたが、勤行の最中であったので、この石に腰掛けて法皇を待ったと云われています。 |
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中門内の桜は「御室桜」と呼ばれ遅咲きで有名な桜の林です。
古くは江戸時代から庶民に親しまれています。
令和の今、海外の人々でいっぱい、こんな時代がくるなんて、想像していなかったでしょうね。
『現地案内を参照』 |