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臨済宗天龍寺派の大本山で、釈迦如来を本尊とします。
足利尊氏が奈良県吉野の行宮にて崩御された後醍醐天皇の菩提を弔うため、暦応2年(1339)、夢窓疎石(むそうそせき)を開山に迎え創建した寺院です。
当初は、暦応資聖禅寺と称されましたが、尊氏の弟・直義が見た金龍の夢に由来し、天龍資聖禅寺と改められました。 |
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夢窓疎石の作庭と云われる庭園は、曹源地を中心に遠景の嵐山と近景の亀山の借景を巧みに取り入れています。
この地は、後嵯峨上皇、亀山上皇の離宮「亀山殿」であり、後醍醐天皇が幼少期から青年期までここで成長修学されたところです。
この寺を建立するために、光厳上皇や足利尊氏は諸国の荘園領地を寄進され、更に「天龍寺船」という貿易船を中国に派遣し、その利益を建立の資金としています。 |
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天龍寺は過去に八回の大火に見舞われました。
最後は元治元年(1864)幕末の蛤御門の変で、長州藩本陣が置かれ、ここより来島又兵衛、国司信濃らは出陣、仁和寺街道を経て、御所の蛤門へ向かいます。
会津藩と薩摩藩とで戦闘になり、薩摩軍の兵火にかかり寺は灰となりました。
そういえば、坂本龍馬銅像や妻・お龍顕彰碑もある、忘れていたよ。 |
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桂川上流の大堰川、鎌倉時代、舟あそびをしていた亀山上皇が月を見上げて「くまなき月の渡るに似る」と云われて「渡月橋」と呼ばれるようになったらしいよ。
舟遊びお屋形船、小さなリモコン船を操作するおじさん、毎日やっているのかな。
橋の近くには小督局の伝説が残る「琴聴橋」や「小督塚」がある。
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小督局は、桜町中納言藤原成範の娘で、美人の誉れ高く、高倉天皇の寵愛を一身に集めていました。
しかし、平清盛の娘・徳子(建礼門院)が、中宮であったため平家の圧迫をおそれて、嵯峨野に身を隠していました。
11月の嵐山は紅葉満開、人あふれる渡月橋のたもとには「琴きき橋」の碑もあるのです。
『現地案内&Wikipediaを参照』 |