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南円堂
藤原鎌足の夫人・鏡王女が夫の病気が治るように願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊とし、京都山科に山階寺(やましなでら)を創建したのが始まりです。
天武天皇元年(672)、山階寺は藤原京に移り、厩坂寺(うまやさかでら)といいました。
和銅3年(710)、藤原不比等が現在の地に移し、興福寺と称しました。 |
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平安時代、摂関家・藤原北家とのつながりが深く、大和国の荘園のほとんどを領して、勢力を強めます。
治承4年(1180)、5月26日、以仁王の挙兵により近江の園城寺や諸国の源氏が反平氏活動に動き始めました。
平氏は挙兵を抑え、重衡は園城寺を焼き払うと、矛先は興福寺へと向かうのです。 |
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平清盛は備前の平氏方の武将・妹尾兼康に南都の僧兵の鎮圧を任せました。
平清盛は兼康に兵500人を付けて、平和的な解決を指示し、軽武装で送り出すのですが、南都の大衆は兼康勢60余人を捕らえて斬首し、猿沢池の端に並べるのです。
平清盛は激怒、平重衡を向かわせ、東大寺や興福寺を焼いてしまうのです。
『Wikipediaを参照』 |