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この石は後醍醐天皇が腰かけた「腰掛石」で、後ろの木は楠木正行公がお手植の木斛(モッコク)です。
楠木正成の子・正行公(まさつら)が四条畷の決戦(足利の武将高師直との戦い)に向かう前、一族郎党143人と共に如意輪寺に参詣し、本堂の扉に鏃(やじり)で辞世の歌を刻み、四条畷に出陣しました。 |
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至情塚
後村上天皇より楠木正行の奥方にとの話があった弁内侍(べんのないし)が、正行公討ち死の後、その菩提を弔うために尼僧となり、その黒髪を埋めた所です。 |
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北条幕府を倒し、建武中興を成しとげた後醍醐天皇は、足利氏との争いのため京都を逃れ、吉野山へ行幸、以来4年間吉野の行宮に過ごされました。
延元4年(1339)、病床に就かれ「身は仮へ南山の苔に埋まるとも魂魄(たましい)は常に北闕(ほっけつ:京都)の天を望まん」と都をあこがれ、遂に崩御されました。
天皇の遺骸をそのまま北向きに葬ったのが「塔尾陵」です。
『現地案内&Wikipediaを参照』 |