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薬師堂は、古くは山のふもとにあったと云われています。
薬師如来を祀るため、正面の扁額(へんがく:建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲げられる額)、には「醫(医)王窟」とあり、古くから眼病など病気平癒を信仰されています。
下の写真は児島高徳公、和田範長一族供養塔です。
昔、このお寺の地は和田範長一族の居城や居館があったところで、児島高徳は7才の頃から一族によって育てられました。 |
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22才の時、後醍醐天皇が隠岐遷幸の途中を船坂山で待ち受け、奪い返そうとして失敗し、院庄まで後を慕うて行き、桜木に十字の詞を書き留めています。
また25才の年、足利尊氏が叛いて九州から攻め上がって来た時、熊山にて旗挙げをし、新田義貞を助けに行ったのもここから出陣しています。
明王院や恵亮院は、和田一族の菩提寺として現存しています。
『現地案内を参照』 |
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