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元弘元年(1333)5月、後醍醐天皇の綸旨(りんじ)を受け挙兵した足利尊氏や赤松則村らは京都六波羅を攻めました。
元弘3年5月9日、京都での合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時公は、北朝の天子光巌天皇、後伏見上皇、花園上皇を奉じて、中山道を関東に向かい、番場の宿に着きました。 |
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しかし佐々木道誉が差し向けた野伏に行く手を阻まれ、玉輦(ぎょくれん:天子や貴人の乗り物)を蓮華寺に移し、大いに戦うも敗れ、本堂前の庭に於いて、仲時公以下430余名自刃するのです。
時の住職三代同阿上人は深く憐れみ、その姓名と年齢、法名を一巻の過去帳に留め、一人一人お墓を建て、丁重に葬っています。
『現地案内&Wikipediaを参照』 |
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