福井市城戸ノ内町 | |
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北陸自動車道「福井IC」から158号線を東へ4kmぐらい、足羽川を南へ渡り18号線を走ります。 まもなく川のほとりには、越前朝倉氏の一乗谷城(いちじょうだに)がありました。 |
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兵庫県養父市の朝倉城を訪れたのは数年前、いつの日かこの地を見たく、ついにやってきました。 延元元年(1336)、広景・正景の父子は斯波氏の重臣として、越前北庄の黒丸館へ移ります。 そして越前一乗谷城を構え、戦国大名まで成長した朝倉氏となるのです。 |
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一乗谷の川を挟んで、遺跡と武家屋敷がある。 福井県のお城探索は二日目、朝、時間が早かったので武家屋敷は準備中。 入口の自動販売機、栄養ドリンクばかり並ぶ、意味不明のまま橋を渡って遺跡へ向かう。 |
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すごく広い、沢山あるよ井戸。 ぐるりと山麓を歩く、観光地と思うけど一人、嬉しく探索気分だよ。 孝景公墓所、南陽寺跡と見る、歩きながら迷う、道じゃないよ。 そう背後の山城、登ろうか、熊注意ともあるし、一人みたいだし。 いつか観光バスで来た時の楽しみ、宴会後でもドリンクいっぱいあるしね。 |
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南北朝時代、北朝方の斯波高経に従って朝倉広景・正景の父子は兵庫但馬から越前に来ました。 南朝方の所領を奪い勢力を伸ばして、広景から七代目・孝景の時、応仁の乱では東軍として活躍、文明四年には府中守護所を治めます。 のち南条杣山合戦・敦賀天神の浜合戦・吉田郡波着寺、岡保合戦などで甲斐氏や主家・斯波氏を追放、ついに越前一国を掌握するのです。 天文十七年(1548)、孝景が没すると、義景が跡を継ぎ、永禄九年(1566)には将軍・足利義昭が朝倉氏を頼って越前に来ました。 しかし義景は越前一向一揆との抗争で将軍を擁することができず、義昭は信長の元へと去っていくのです。 永禄十一年(1569)、信長が義昭を擁して上洛、翌年元亀元年には越前攻めを開始、金ケ崎城や天筒山城を落として府中城から一乗谷城へ攻め込む勢いでした。 しかし近江・浅井氏が突然信長の背後を衝かんと兵を挙げ、信長は退却し朝倉氏は危機を脱します。 天正元年(1573)、信長は再び浅井氏攻略に取りかかり、報せを聞いた朝倉氏は出陣するも戦況は悪く退陣、ついには自害、館も焼き尽くされて、ここに朝倉氏は滅亡するのです。 『参考文献を参照』 |
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