勝山市元町1丁目 | |
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北陸自動車道「福井北IC」から九頭竜川に沿って416号線を東へ走ります。 勝山市内の市役所や市民会館あたりが勝山城(かつやま)と云われています。 |
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ここは市民会館の玄関、石碑と案内があるよ。 柴田勝安(勝政)は佐久間盛次の三男、勝家の北陸平定で戦功を挙げ、養子になったんだ。 でも丸岡城の柴田勝豊とは仲が悪く、それがもとで賤ヶ岳では勝豊が裏切ったという話だよ。 近江の賤ヶ岳で確かめなくてはね。 市役所から157号線を南へ、地図にも「勝山城」とある。 |
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大きさにびっくりするお城、でも姫路城に似ているね。 3層目かな、左右対称でないとこまでそっくりだなぁ。 それにしても、市民会館の北側にある小笠原氏墓所のお寺、駐車できなくてあきらめたけど、後悔だなぁ。 |
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天正八年(1580)、袋田と呼ばれていたこの地に初めて城を築いたのは、柴田勝家の一族、勝安でした。 勝安は九頭竜川の河岸段丘である七里壁や、北側に広がる沼地などを利用して城を築き、勝山支配の拠点としました。 勝安の築いた城は、元和元年(1615)、徳川幕府による一国一城令による壊されたようです。 以後、この跡地には代々の領主の館が建てられる程度でした。 勝山において、城郭と城下町が整備されてくるのは、元禄四年(1691)に小笠原貞信が入封してからです。 貞信は2万2777石をもって美濃国高須から勝山に入封しました。 当時、勝山には城跡しかなかったので、貞信は幕府に対し築城の許可を願い出たのですが、実際に許可を得たのは宝永六年(1709)七月十二日、二代信辰の代になってからです。 信辰は、まず本丸の普請に取りかかり、古い塀を掘り返したり、土居を築いたりして一応その形を整えました。 しかし、財政が続かなかったようで、その後の工事は中断します。 工事が再開されたのは、およそ60年後の明和七年(1770)、五代信房の時でした。 信房は二の丸を築き、藩主の御殿をそこに移転しました。 七代長貴は、幕府の若年寄という要職についていましたが、藩の財政は出費がかさみ厳しく、その上文政五年(1822)には本丸から出火し、門・高塀・土蔵を残して焼失したのです。 この時、町や、村むらからの見舞い金や手伝いによって、瓦や檜皮葺きの御殿が再建されました。 また長貴の代には、二の丸北部の未完成部分が仕上げられ、築城からおよそ120年が経過してようやく当初の計画に近い形の城郭ができあがりました。 八代長守の時に明治維新を迎え、城郭の建物等は売りに出され、天守台と本丸の塀の一部を残し埋め立てられたのです。 『現地案内を参照』 |
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