岐阜城

岐阜市天主閣

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東海北陸自動車道、「岐阜各務原IC」から21号線を西へ走ります。

157号線を北へ走れば岐阜市内、さらに北には標高336m(比高308m)の金華山山頂には岐阜城(ぎふ)がありました。
  
  
2007年3月、ついに来ました憧れのお城。 青春頃から憧れていたんだよ。 中学生だった、国取物語を読み、大河ドラマで見た。

それが歴史好きの始まり、斉藤道三の強烈な印象はまだ残っている。 城跡探索もやっと岐阜、稲葉山へたどり着いたんだよ。

  
 天文7年(1538)、守護代・斉藤利良が没すると新九郎は斉藤家に入り、斉藤利政と改め、稲葉山上のお城を修復しました。

斉藤利政は大桑城の土岐頼芸を攻略し、事実上美濃の国主となり、斉藤道三と名乗るのです。
道三は稲葉山城を子・義竜に譲ると、明智城主・明智光継の娘との間に生まれた竜元・竜之を城主にしようと考えます。
   
  
 一方、尾張の信長が清洲城から小牧城、犬山城を落とし、美濃へ侵攻してきます。

ついに竜興は信長の攻撃を支えきれずに脱出、信長が城主となりました。

そして稲葉山城を岐阜と改めるのです。
  
  
十三世紀のはじめ(建仁のころ)、鎌倉幕府の政所令二階堂行政が、ここに砦を構えたのが築城のはじめです。

二階堂氏は鎌倉の二階堂に住み、氏を称えました。 その一門は、関東から美濃・伊勢・薩摩などで豪族として栄えます。

美濃の場合、関の新長谷寺(吉田観音)を建てたのも二階堂氏です。 その後、行政の子孫はここに居城し、姓を稲葉氏と改め稲葉山城といわれるようになりました。

戦国時代の動乱の中で、土岐・斎藤氏の一族が稲葉氏の砦遺構を利用して、ふたたび城を築き、城下町もできました。

大永5年(1525)、美濃国で内乱がおき、守護土岐氏と守護代斎藤氏の実権は、長井氏に移ります。 稲葉山城も斎藤氏の一族が居城していましたが、長井氏に追放され、長井新左衛門尉の居城となりました。

新左衛門尉は済藤道三の父親といわれ、大永から享禄年間(1521-32)の史料に、名前がしばしばでてきます。

永禄10年(1567)、信長は稲葉山城主・斎藤龍興を追放し、「井口」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点としました。

金華山の西麓にあたるこの辺りには、人工的な二〜三段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の大部分を千畳敷下といいます。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で、壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれています。

『現地案内を参照』

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