安芸高田市吉田町吉田 | |
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中国自動車道、「三次IC」から国道54号線を南へ走ります。 吉田町役場の「消防署前交差点」を西へ曲がると歴史民族資料館、その北側標高389m(比高100m)の山には、郡山城(こおりやま)があります。 |
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なぜか西へ向かうと口ずさむ 「雪解け 間近の 北の空に 向かい・・」 探索始めて4度目の秋、ここは初めての安芸。 くねくね中国自動車道、やっと着いた、毛利元就のお城だよ。 郭が130もあるらしい、山全体がお城、ほんとすごいよ。 |
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「三矢の訓(おしえ)」 麓の郷土資料館は「御里屋敷」と呼ばれた元就居館、そこから上るよ。 すぐに郡山城の石碑がある、その東側だね。 三人の子、毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に矢を折らす話は有名。 イタリア語ではサンフレッチェ、BANDOがんばれ。 |
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「尼子陣所」 南を見る、多治比川を挟んで、左が青山、右が光井山、併せて青光井山、そのものだね。 天文十年(1541)、尼子晴久が三万の兵で元就と郡山合戦をした、晴久は尼子経久の孫だよ。 真ん中の山麓が「古戦場跡」、次の旅は出雲だよ、きっと。 |
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「毛利隆元の墓所」 長男・隆元は山口の大内氏の人質だった。 19歳で帰り、24歳で家督を相続するんだ。 出雲の尼子氏攻めの途中、安芸佐々部(高田郡高宮町)で急逝、41歳。 この隆元の子が毛利輝元、豊臣政権の五大老の一人だね。 |
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「釣井の壇」 もう山頂、ここは「御蔵屋敷」、上へは本丸。 本丸を中心に星みたいに、6本の尾根が延びてる。 左へ回ると井戸 山で井戸、久しぶり、やっぱりいいよね。 待っていてくれたのは、井戸かな。 |
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さらに回ると姫丸壇、元就が築城した時、「百万一心」と刻んだ礎石を埋めたらしい。 それを長州藩士・武田泰信が拓本にとったとも云われている。 「釜屋の壇」「厩の壇」と回る、「三の丸」「二の丸」と上る。 そして「本丸」 元就が居たんだ、岡山のお城でよく登場してた、ここから来ていたんだね。 |
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「毛利元就墓所」 郡山城で生まれ郡山城で生涯を閉じた。 いつも思う、信長や元就、戦国時代を生き抜いた武将達。 テレビや小説で見たり読む、今でもどこか遠くで働いてる気がする。 近づいてみる、距離の遠さが、時間差に変わり、差がゼロになる現実がお墓なんだね。 |
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郡山城は、南北朝時代の建武3年(1336)、毛利時頼が郡山東南麓に旧本城を築城、後に元就が郡山全体を城塞化し、されに輝元が改修を加えた大規模な山城で、毛利氏約260余年間の居城です。 郡山城は、北流する可愛川と、それに注ぐ多治比川との合流点の北側にあり、標高390m、比高190m、範囲は約1km四方に広がります。 遺構は、山頂に本丸、周囲に二の丸、三の丸ほか、御蔵屋敷の壇、勢溜の壇、姫の丸の壇など、大小約270の曲輪が配され、ところどころに石塁が見られます。 天文9年(1540)9月、尼子晴久が三万の大軍を率いて来攻しましたが、毛利軍は小勢ながらよく戦い、翌年1月尼子軍を敗退させています。 その後、毛利氏は、この城を本拠として、中四国、北九州にまで勢力をのばしました。 天正19年(1591)、輝元の広島城移城後は、廃城となり、江戸時代に入って建物、石垣等も壊され、堀も埋められました。 郡山城は、中世山城の特徴を今に伝える貴重な遺構であります。 『現地案内を参照』 |
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