猿掛城

安芸高田市吉田町多治比

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中国自動車道、「三次IC」から国道54号線を南へ走ります。

吉田町役場の「消防署前交差点」を西へ曲がると郡山城、そのまま4kmほど西へ走ると、南側には標高370m(比高120m)の猿掛城(さるかけ)があります。

2006年10月、秋の旅。 安芸国は毛利元就、武田氏も出てくるよ。
   
  
多治比城とも呼ばれ、毛利元就が4歳から27歳まで過ごしたお城だよ。

母を亡くした後、父の側室・大方殿に育てられたんだ。
  
  
「毛利弘元の墓所」

教善寺まで車で上れる、途中の道沿いの石垣が気になる。

お寺の手前、広元と夫人のお墓。

弘元は元就の父、夫人は鈴尾城主・福原広俊の娘だね。

応仁二年(1468)に生まれ、九歳で郡山城主になる。

尼子氏と大内氏との狭間で生き抜き、猿掛城へ来るんだ。 
  
  
寺屋敷を中心に、北に4段、帯曲輪8段、その上に3段の曲輪群があるらしい。

前から猿掛城の名前が気になっていた、きっと猿が腰掛けていたと思う。

可愛川(えのがわ)を北へ、三次から北西に行くと猪掛城がある、どう思ったらいいのだろうか。

思いながら、つづら折れを上ります。
   
  
頂上だよ、本丸。

北の端には高さ3mの盛土、ここの櫓台だね。

南の端には土塁、その下の堀切を見ようと思ったけど、足がジンジンしたから止めた。

久しぶりの震えである。
  
  
上った所は真ん中と思うけど、よく分からなくなる。

右手の一段高い山が物見丸、手前が出丸だよ、遠くからでも山頂の平らが分かる。

郡山城、猿掛城ときたら、次はだいたい分かるよね。

秋の旅、どこまで歩けるかな。
   

  
多治比猿掛城は、郡山城跡から多治比川に沿って、北西4km上流にあります。 石州路に通じる交通の要衝で、郡山城の北方を守る重要な位置にありました。

築城から廃城までの歴史的な経過は明らかではありませんが、毛利元就が青少年期を過ごした城として知られています。

元就は4歳の時、明応9年(1500)家督を長子・興元に譲り、隠居した父・弘元に連れられ、郡山城からこの城に移り住んで以来、大永3年(1523)27歳の時に、甥の幸松夭折(ようせつ)のあとをうけて、毛利家の家督を継承し郡山城に入城するまで、この城に居ました。

遺構は、標高376m、比高120mの急峻な山上に長大な平坦面と櫓台、土塁などを持った本丸、二の丸、三の丸などからなります。

中心部曲輪群をおき、その背後には深い堀切、尾根続きに物見丸、中心部から北下方に寺屋敷曲輪群があり、竪堀もみられ、谷をはさんで出丸があります。

山麓には悦叟院(えそういん)の寺院があり、そこに毛利弘元・同夫人の墓所があります。

城跡は、良好に保存されており、戦国期の毛利氏の城のあり方をよく示す、貴重な城跡です。

『現地案内を参照』

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