網干陣屋

姫路市網干区興浜

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国道250線、揖保川の「網干大橋」手前の川沿を南へ曲がり、500mほどで「木町橋」があります。

その橋を東側の街並に入ったところに網干陣屋(あぼし)があります。

何回足を運んでも次から次へと見たくなる網干の街、きっと誰かが居たんだね。
   
   
ここは播磨国風土記の頃には渦を巻いた淵があったので「宇頭川」(うずがわ)とも呼ばれていた「揖保川」の河口付近です。

揖保川を北に上ると龍野城がある街、網干は龍野の醤油をはじめ様々な物資を積んだ船が瀬戸内海へと行き交う港町として栄えていました。

実は網干へ来たのは3回、この陣屋跡は2回目だったのです。

  
「船渡八幡神社と堀川構渠」

1回目、2003年秋です。 「網干陣屋」を目指してやってきました。

250号線から揖保川沿いに入って、すぐ見つけたこの建物と隣の船渡八幡神社を陣屋跡だと思い満足して帰りました。

でも、違うかった。 しかし、この建物はいったい何だったのだろうか。
  
   
「勝海舟直筆の石碑」

2003年の年末、2回目でやっと「網干陣屋」を見て、街中の細い道を満足しながら帰ったよ。

でも大河ドラマを思うと「勝海舟が書いた碑」が見たく、年が明けて3回目の網干です。

なんと1回目の「船渡八幡神社」のすぐ北側にあったのです。 この石碑の左側の建物は、上の写真の右端だよ。 
   
   
「魚吹八幡神社(うすきはちまん)」

陣屋から北へ2kmには、「魚吹八幡神社」があります。

神社由来書によると、神功皇后が西方からの帰途に、この地で停泊し、玉依比売命(たまよりひめのみこと)をお祀りしたのが始まりです。

また神功皇后が乗った船が、浅瀬に乗り上げたとき、船端に魚が群をなして砂を吹き出して船を進めたり、この社を建立する際にも、群をなした魚が砂を吹き上げ、一夜にして新しい土地を作り上げたという伝説があります。 
   
  
「ダイセル異人館」

陣屋からだと、南東へ1kmかな。

明治42年、セルロイド絹糸の工場が建設されて、工場の操業にあたりイギリス・ドイツ・スイスから技師を招いて、住宅として建築されました。 今では兵庫県の住宅百選のひとつです。

ダイセルという会社の敷地にあるので、勝手に入っていいのか不安になりながらも入りました。(道路にも案内標識があるから、いいと思うのだけど) きれいな建物だよ。 
  
    
「揖保川の夕暮」

魚吹八幡神社の放生会、これは2日間殺生を禁断し、氏子の漁師が網を干して社参し、大漁を祈る祭事です。 「網干」の地名のいわれです。

網干の4回目、「境橋」が見たくなってきたよ。

何回来ても道が良くわからない街だけど、昔を捜していたら宇頭川はすっかり夕暮れになっていたんだよ。 
 

    
この地は、かつて秀吉が別邸(鶴松亭)を建てたところで、江戸時代初頭は姫路藩領でしたが、曲折の後、寛永十四年(1637)、龍野藩領となりました。

万治元年(1658)、当時の龍野藩主・京極高和は四国の丸亀藩へ移封されたのですが、網干地区二十八カ村(一万石)だけは引き続いて京極家領となり、以来明治まで丸亀藩の飛地だったのです。

丸亀藩はこの地に網干陣屋を設け、代官・奉行などを配置し、明治維新で建物はほとんど取り払われましたが、門だけが残されました。

かつて揖保川の近くに西面して建っていた陣屋門は、明治三年(1870)この地に移築され、永らく興浜の壇尻庫として利用されていました。

現在の建物は、老朽化した旧陣屋門を参考にして、昭和六十二年度に改築されたもので、旧にならって軒丸瓦には京極家の家紋が用いられています。

『現地案内を参照』』

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