本庄城(阿閇城)

加古郡播磨町北本荘

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国道250線(明姫幹線)、加古川の「壱丁田交差点」を南へ曲がり、山陽電車「別府駅」を越えて、718号線の「別府交差点」を東へ走ります。

播磨町に入り300mほどで北へ曲がると蓮花寺、南に曲がると阿閇神社があり、この辺りが阿閇城(あえ)と云われています。
   
  
「蓮花寺」

一説にはこのお寺が阿閇城跡とも云われています。

本庄構居とも云われる阿閇城、読むのは難しいけど、言葉は遠い昔話を伝えているんだね。
  
   
 一の宮から四の宮に至る四社からなります。

春日造りの形式で四社が軒を接近して配置しているのは例が少なく、神社建築史研究上、注目されています。
   
   
播磨風土記には播磨町は阿閇村と伝わっています。

そして「阿閇の津」は昔から湊が発達し、海上の守護神として摂津の住吉大社から「子神」を御分霊し祀りました。
  

  
播磨風土記には、「岡が鹿(鹿児:かこ)のように見える」と言ったことから「賀古の郡」と呼ばれるようになりました。

この「賀古の郡」には「印南別嬢(いんなみのわきいらつめ)」という女性が住んでいました。 第十二代・景行天皇は狩で出会った印南別嬢が忘れられず、播磨に出向くことになります。

それを知った印南別嬢は「南毘都麻(なびつま)」と云われる島(加古川の河口あたり)に隠れてしまいます。 天皇が海辺の島を探がしていると、白い犬が南毘都麻の方を向いて吠えました。

天皇は南毘都麻に印南別嬢は居ることを知ると、まず食事をした場所が阿閇なのです。
   
  天永二年(1111)、源師房の三代後・季房が播磨の守護として加古郡大内村に移り城を構えました。 (加古川市野口町の古大内城)

源季房は住吉大明神を信仰し、国家安全を祈願されていました。

のち赤松氏は赤穂郡上郡に白旗城を構えた時も、赤松氏の祈願所として深く崇拝を受け、そのために赤松氏の居城に向かって西向きに建立されたと云われています。
  
そして城主が菅原十三郎や吉川次郎左衛門の頃、秀吉の三木城攻めの後で、秀吉配下・津田小八郎によって取り壊されました。


『参考文献を参照』

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