姫路市飾磨区英賀 | |
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JR英賀保駅を中心に扇状に英賀(あが)の町は広がっています。 英賀の城跡探索するには、まず駅から南約500mにある英賀保小学校を目指し、その学校の東側の公園入口の「英賀保めぐり案内図」を探します。 |
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案内図には見所の地図と写真がのせてあります。 とにかくこの街は扇に交差している道路のため、自分が今居る場所がわからなくなります。 この城跡は自動車ではなく、歩いて探索した方がいいですよ。 いきなりこの石碑を見つけることは難しいですよ。 やっと見つけた、という感じです。 |
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「英賀城土塁跡」 夢前川方向にある城土塁で、何年か前に訪れた時には真ん中に「英賀城土塁跡」の標示石版があったのに、どこにいったのだろうか。 |
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「英賀神社」境内には「司馬遼太郎文学碑」で「播磨灘物語」と刻まれています。 小説中の「英賀の浦」の部分を読み返してみると、 天正三年、別所氏・赤松氏・小寺氏は織田側に付いたのですが、英賀城は毛利方の吉川元春に付きました。 毛利の水軍五千は英賀の浦から入り、英賀城側と合流して姫路城から1里半の距離まで迫ってきます。 |
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「英賀城土塁跡の石碑」 官兵衛の姫路城・御着城合わせて全員五千、空になった城には百姓を集めて偽兵を入れるという虚勢の作戦を立てました。 そして、毛利・英賀方陣地に急襲をかけ、後詰めの偽兵には無数の旗をひるがえさせ、陣貝を鳴らさせました。 毛利勢は、大勢の後詰めがせまっていると思い退却してしまったのです。 |
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岩繋城(いわつぎ)ともいい、南は海、西は夢前川、東は水尾川に面し、北は湿地帯で、守るのに大変つごうがよい城でした。 鎌倉時代には、砦が造られていましたが、室町時代になると播磨の守護大名であった赤松氏の一族が守りました。 しかし嘉吉の乱(1441)によって赤松氏が勢力を失った後、三木氏が城主となって城をさらに整えました。 天正八年(1580)、秀吉に滅ぼされるまで約140年間三木氏は、的形から室津の間を中心にその周辺を支配し一大勢力を誇り、城内には本丸・二の丸をはじめ、一族がそれぞれ大きな屋敷を構えていました。 また英賀御坊をはじめ多くの真宗寺院、商家や住宅が建てられ、交易の盛んな港のある城下町(四十九町・約九百軒)としておおいににぎわっていました。 昭和十三年ごろまでは土塁が残っていましたが、今では英賀神社とあが薬師(城主の墓所・法寿寺跡)の北側だけに残っています。 また英賀御坊跡は昭和十三年ごろ夢前川の付帯工事により消滅し、その時、瓦・礎石や日常使用していた器などが出土していました。 『現地案内を参照』 |
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