赤松館

三田市東山

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中国自動車道、「神戸三田IC」で降りて東の国道176号線を北へ走ります。

広瀬駅近くの「広野口交差点」から武庫川の東沿いを更に北上、2kmぐらいで西へ入ります。

やがて集落の中には東山八幡宮、その手前には赤松館があります。
  
  
赤松一族の満政が居た所だよ。

同族でも敵陣になる、でも赤松家再興につながる人物をかくまってもいる。

嘉吉の乱で滅亡して、政則が再興するまでの赤松一族の気持ちは複雑だったんだよね。
 
  
 隣の東山八幡宮、見えるのは館の塀だよ。

話は変わるけど、
11月7日、夢前町の置塩城で出土した「庭園」の現地説明会に行きました。

一人で少し怖くなって小走りで見た時と違って、沢山の方と話ができ、また改めて置塩城の広さに圧倒されました。 調査員の方々、ご苦労さまでした。
   
    
人は何によって左右され、行動するのか。 時には好きなのに嫌いと言ってしまう。

年表や出来事は少しづつ判明してくる、でもその瞬間の人の気持ちは永遠に分からないね。

人の心まで推測すること、それが歴史の面白さ、発掘ではそう教えていただいたような気がするよ。

雨粒のごとく水面で消えてしまう、それも人の心なのかな。 
   

    
赤松円心の三男・則祐、その子には義則・時則・満則・義祐がいました。 義則が赤松惣領家、満則は大河内家、義祐は有馬家と呼ばれていました。

嘉吉元年(1441)、「嘉吉の乱」で赤松一族は自害し滅亡するのです。

この時、大河内家の赤松満則の子・満政は、細川軍側に付いて赤松軍を攻撃し、恩賞として播磨の東三郡(明石郡・美嚢郡・賀東郡)が与えられ、満政が居を構えた所がこの赤松館なのです。

のち満政と城山城から脱出した則尚はしめしあわせて、山名氏に対抗し兵を挙げたのですが敗れ、満政は有馬家義祐の子・有馬持家をたよりました。

文安二年(1445)、今度は丹波守護の細川勝元勢が有馬郡を攻め、最後には有馬持家が満政を討ち、満政父子と主従124人は京都で梟首、則尚も山名氏により討たれ備前で自害するのです。

『参考文献を参照』

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