姫路市安富町安志 | |
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国道29号線を鳥取方面へ、中国自動車道と交わる辺りに安志藩陣屋(あんじはん)があります。 何回来ても、同じコースを歩いてしまう。 でもやっと陣屋門にたどり着いたよ、ここは小笠原氏の陣屋、明石城の小笠原氏との関係や藩主のことが勉強になるよ。 |
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真光寺には藩主邸の表門が移築されています。 安富中学校あたりが陣屋跡らしい、でも当時の面影は残っていないよ。 |
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「加茂神社」 大化元年(645)、京都の加茂大社にこの地を寄進したとあり、林田の祝田社や室津の加茂明神社とともに、京都加茂大社の播磨荘園として全国80箇所の一つです。 法性寺の西側にも「加茂神社」の鳥居があるけど、そちらの方が藩主ゆかりの神社だったのかな。 |
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「法性寺」 この安志藩陣屋は三回来ました、ここには藩主の墓碑があります。 陣屋表門はもっと南にあったのですね、三回目で分かりました。 でもそれ以上に黒い服を着た人を何度も見るけど誰かな、いつまでも心残りが溜まったままなのです。 |
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このページを借りて兵庫県の藩を書いてみました。 「摂津」 尼崎藩(戸田氏鉄)、三田藩(九鬼久隆) 「播磨」 姫路藩(池田輝政)、赤穂藩(池田政綱)、平福藩(池田輝興)、明石藩(小笠原忠真)、龍野藩(本多政朝)、山崎藩(池田輝澄)、林田藩(建部政長)、鳩藩(池田重利)、小野藩(一柳直家)、福本藩(池田政直)、三日月藩(森長俊)、安志藩(小笠原長興)、三草藩(丹羽薫氏) 「丹波」 篠山藩(松井康重)、柏原藩(織田信包) 「但馬」 出石藩(小出吉政)、豊岡藩(杉原長房)、村岡藩(山名義済) 「淡路」 徳島藩 |
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これを見ると明石藩と安志藩に小笠原氏の名があります。 小笠原氏は甲斐国(山梨県中巨摩郡小笠原村)の出身で、建武の新政の頃には足利尊氏に従い、信濃(長野県)の守護に任じられます。 戦国時代、小笠原長時は信濃を追われ、会津で家臣に殺害されています。 その子・貞慶は織田信長に仕えました。 天正十年(1582)、信長による武田氏討伐後の領地分配で小笠原氏旧領である安曇・筑摩と深志城(松本城)は木曽義昌に与えらるのです。 この年、本能寺で信長が殺害された後、上杉景勝の援護で深志城から木曽義昌を追い払い、長時の弟・貞種が城主になりました。 しかし家康の援護を受けた小笠原貞慶が叔父・貞種を攻撃して城主になったのです。 そして貞慶の子・秀政は徳川信康(家康の子)の娘を正室に迎え、徳川譜代衆の地位を得て、豊前小倉城主になりました。 大阪夏の陣で、小笠原秀政・忠脩父子は討死し、その功績によって忠脩の子・長次が龍野藩主、忠脩の弟・忠政(忠真)が明石藩主になりました。 この龍野藩主の長次が豊前中津藩に移ったのですが、三代・長胤が不行により減封、五代・長邑が六歳で世を去ったことで本来なら改易されるところ昔の功績と家柄により、五歳の長興に宍粟郡・佐用郡・赤穂郡の領地が与えられたのです。 これが小笠原氏の安志藩主の始まりです。 寛永五年(1852)の百姓一揆や藩士二十余人が脱藩する「安志騒動」を経て、明治二年(1869)の版籍奉還をもって七代続いた小笠原氏の安志藩は終わるのです。 『参考文献を参照』 |
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