有子山城

豊岡市出石町内町

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出石の町は但馬の小京都ともいわれ、その東の山頂には山名氏の中世末期の本城である有子山城(ありこやま)があります。

山麓の出石城の「稲荷曲輪」から尾根筋を一直線に登るので、気合いがいります。
    
     
標高321mの有子山山頂に主郭と、その西方には6段の曲輪が階段状に続いています。

石垣の状態から、中世から近世への遷り変りの城郭を残しているそうです。
 
  
びっくりしました。

城下町の楽しい観光とは全ったく違う世界を見せてくれるのです。
   
   
「本丸下にある曲輪の石垣」

奥行きが約40mで見応えがあります。  
   
   
左が本丸、右側が「千畳敷」とよばれるところで、長さ125m、幅45mの広大な曲輪です。 兵の集合や物資の貯蔵と考えられています。

本丸側へはロープをつたってのアスレチック状態で這い上がります。  
   
   
あまり前に寄ると落ちそうなので、少し後ろに下がっての写真です。 やっぱり足がじんじんとなりました。

さすがに日本海までは見えなかったです。 出石城下の街中は観光する人でいっぱいなのに、ここは一人きり。

出石に来た時には、山頂を見上げて壮大な城跡があることを想ってほしい、そんな気持ちでいっぱいになりました。 
   

  
室町三代将軍・足利義満は、但馬の守護・山名氏の勢力があまりにも大きくなってきたので、山名氏清は討伐され、領国もわずか三ヶ国に減らされてしまうのです。「明徳の乱(1391)」

その後、時熈(ときひろ)・持豊(宗全)の代には、戦国の時代へと移り下克上の世となっていくのです。 「応仁の乱(1467〜1477)」

永禄十二年(1569)、秀吉軍の「第一次但馬攻め」によって此隅山城は落城、一時は祐豊・氏政も但馬を脱出しています。

天正二年(1574)、祐豊は再び但馬に復帰し、此隅山から有子山に新しく築城して本拠を移してきたのです。

その名も落城した「子盗」(此隅)の名を嫌って「有子」と命名したといわれています。

しかし六年後の天正八年(1580)、秀吉の「第二次但馬攻め」で城は落ち、ついに但馬・山名氏も滅亡してしまうのです。

その後は、龍野城・小出氏が城主となるのですが、麓に出石城が築城され、有子山城は静かにその役目を終えていくのです。

『参考文献を参照』

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