佐用郡佐用町大坪字福原 | |
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中国自動車道「佐用IC」から、373号線を南へ約2kmほどの「上町交差点」から179号線を西へ走ります。 JR佐用駅を過ぎてまもなく右手には福原城(ふくはら)の道標があります。 何回も前を通り過ぎては、次に来ようと思っていたよ。 黒田官兵衛や竹中半兵衛、日本を動かした二人も何回か通り過ぎたのかな。 |
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国道沿いには「道の駅」、平福藩陣屋の御門が見えてるよ。 平福の街、川端を歩く、山頂には利神城が見えている。 佐用川を渡ると利神駅、その東側には屋敷跡も見えてるよ。 |
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「福原霊社」 福原則尚を介錯した斉藤次郎が、主の首を背負い美作まで馬を飛ばしたのですが、追手の小松兵衛により矢で討死しました。 秀吉は首を甕(かめ)に入れ、朱をもって密封し丁重に葬りました。 大阪夏の陣も終わる頃、福原城の近くにある柴谷山の山頂を掘ると、朱で密封された甕が出てきました。 以来、この神社は首部(こうべ)神社として祀られているのです。 |
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中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落としなどよくその原型をとどめています。 元弘三年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将名越尾張守高家を打ち取った作用兵庫介範家の築城と伝えられます。 その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも言われています 。 戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の上月城、南の高倉城、東の利神城とともに赤松一統の城郭群を形成していましたが、天正五年(1577)11月、上方勢の秀吉との攻防により落城しその役割を終えました。 後世、土地の人々によって、時の城主・福原則尚の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭様)」として今に広く崇敬されています。 『現地案内を参照』 |
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