御着城

姫路市御国野町御着

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国道2号線を東へ行くと、御国野町御着の国道沿いに御着城(ごちゃく)は在ります。

中世末期に西播磨で最大の国人であった小寺氏の本城です。

東播磨を押えていた別所氏の三木城、三木氏の英賀城とともに播磨三大城郭の一つといわれています。
   
   
国道の北側にある「御着城跡」の石碑です。

ここは二の丸跡で、現在は姫路市東出張所になっています。

秀吉の播磨攻めで揺れ動きましたが、他のお城と違うところは小寺氏の重臣姫路城主・黒田官兵衛孝高が秀吉の参謀になって、九州博多の大守まで登り詰めていく舞台になったところでもあります。
 
  
「黒田家の廟所」

出張所の西側には黒田家の廟所がある。黒田重隆と職隆の夫人の供養塔があります。
   
   
本丸跡地にある「天川城跡」の石碑

西には天川があり、当時は天川城と呼ばれていたのです。  小寺一族と御着城に関係する人々をお祀りしている「小寺大明神」があります。

この跡は国道の南側にあり、見逃すので注意してください。 
   
  
「天川橋」

姫路藩が文政11年(1828)に天川に架けた総竜山石製の太鼓橋です。

支所の北側にあります。 橋の中央の下は御着城の濠の跡です。
   
   
「黒田官兵衛 顕彰碑」

御着城と言えば、やっぱり官兵衛。

軍師官兵衛、やっぱりかっこいいよね。
   

    
御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城でした。

永正一六年(1519)、小寺政隆が築城、則職・政職と継承され、天正六年(1578)から七年に秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441-1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能をもつ城郭として機能していました。

昭和52-54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われた事が判明します。

中世の人びとの生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出されました。

宝暦五年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれています。

現在、御着城跡の中央を東西に国道二号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館があります。

『現地案内を参照』

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