波賀城

兵庫県宍栗市波賀町上野

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国道29号線を中国縦貫道路を超え、揖保川沿いの因幡街道(29号線)を走ると、道の駅・みなみ波賀があります。

そこから1kmほど北に行くと、東側の山頂には波賀城(はが)があります。

山頂付近まで道路が整備され、とても楽に行くことができます。
  
   
復元された石垣は、中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張とともに、この城が過渡期のものを示す貴重な遺構になっています。

模擬の天守は「学習資料館」だね。
 
  
大手にあるよ。 この先へは「冠木門」を通って曲輪へと進みます。

途中には、丸い石がいたる所にころがっているね。 
    
   
因幡街道や波賀の町、そして山。

ここからの眺めはすばらしいです。 前が急斜面になっているので、高い所が苦手な人は、足がジンジンすると思います。

麓には、芳賀一族が祭られる宝殿神社があります。
   
   
「引原ダムがある音水湖」

波賀城から北へ8kmほど行くときれいな湖があります。

昭和33年にダムが完成するまでは、揖保川流域では大きな洪水に見舞われていました。

今では西播磨の「水がめ」になっているよ。
   

   
十一世紀の初めの頃までに、私達のこの地域は、伯可荘として石清水八幡宮の荘園になっていました。

この地には有名な名馬の伝説があります。 「その昔、芳賀七郎という武士がおりました。

彼は素晴らしい馬を飼っていましたが、ある時そのことが都にまで聞こえ、その名馬を献上せよとの命令が届きます。

七郎は名馬を惜しんでそれに従わなかったので、合戦になりました。 彼は「馬隠しの穴」に馬を隠して戦いましたが、とうとう力尽きて戦死してしまいます。

伝説の芳賀氏は、伯可荘の有力者であったと思われ、ここに初めて城を築いたのも、この一族であったものと推測されます。

十三世紀の中ごろ、地頭としてこの地に移って来たのが中村氏や大河原氏です。

彼らは鎌倉幕府の御家人で秩父(埼玉県秩父郡)を本拠地とした秩父丹党、丹治氏の一族です。

中村氏は初代の光時から戦国時代末期の吉宗まで二十代にわたって波賀城主であったといわれています。

波賀城を修理・拡張し、これを拠点にして赤松氏などの支配下で勢力を維持したものと思われます。

現在の波賀城は、このような歴史を持つ城を戦国時代末期にさらに拡張・整備した時のものと考えられます。

秀吉が播磨を制圧した時、北の守りの拠点としたものである可能性も考えられます。

この城は山陽道と日本海を結ぶ因幡街道や、それと千種を結ぶ街道、三方に通じる街道を眼下にする戦略的な位置にあり、ほとんど独立した山に築かれたために麓から本丸までの距離が短いので、途中に多くの「郭」を作って縦深をとっています。

また西の小山(古城)にも砦を築き、一体となって敵軍を防ぐ工夫をしています。

復元された城の石垣は中世と近世の中間的な特徴を持ち、全体の縄張りとともにこの城が過渡期のものであることを示す貴重な遺構になっています。

『現地案内を参照』

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