樋山城

兵庫県たつの市龍野町日山

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姫路・太子龍野バイパス、「太子北IC」から少し西の国道179号線を北西に走り揖保川を渡ると龍野の街、すぐ西側の日山の山頂には樋山城(ひやま)があります。
     
    
国民宿舎「赤とんぼ荘」がある日山、「哲学の小径」の辺りが城跡なのかな。

夕焼けで皆の顔が染まるもよし、二人浴衣姿で夜景を見るもよし。

龍野は一人で歩くのもいい街だよ。
  
  
 宿舎から城跡の山を越えて「狐塚古墳」の入り口を横目に「内海青潮の詩碑」の前を南に歩くところだよ。

上から下まで段々になっている、昔の石積みだったらいいのにね。
    
   
「粒坐天照神社(いいぼにますあまてらす)」

地元では「りゅうざ」と呼んでるよ。 「播磨風土記」、大陸から天日槍(あめのひぼこ)の軍勢が播磨に攻めてきました。

出雲の伊和大神が対抗する時、ここでご飯を食べようとしてあわてて米粒をこぼしたよ。

そこで粒の丘(いいぼのおか)、揖保の地名がつきました。 
   
   
「あかとんぼ荘」

神社から東へ歩く、日山を一周したんだね。

向こうに見えるのが「あかとんぼ荘」、兵庫県で最初の国民宿舎だよ。

神社の案内には推古天皇二年(594)、的場山に農業の守護神・天照国照彦火明命を祀り、一粒の種から大豊作のお米ができました。

それから粒・揖保・飯穂(いいぼ)と呼ばれたともあるよ。
   
   
その神社は嘉吉の乱で焼失、天正九年には龍野城主・蜂須賀小六が遷座し、のちの城主・福島正則が社殿を造営しています。

いろんな人物が登場する龍野、今年10月には合併するよ。

新宮町・揖保川町・御津町と、名前も「たつの市」に変わるらしい、今年の10月だけで60箇所ぐらいが合併する。

そんな龍野の街並、龍野神社のある北へと歩いてるよ。 
   
   
「楽庵の記」

ここは裏千家鵬雲斎千宗室家元に「楽庵」と命名された茶室、隣には「聚遠亭」、龍野城に写真があるよ。

手前には藩主・脇坂家の「御涼所」と呼ばれる屋敷もある、床下には抜け穴があるらしい。

まだまだ人物、出てくる出てくる。 
   
   
「龍野神社」

脇坂氏は近江国の脇坂野の出身、安明は信長に従い、子・安治は秀吉に仕えました。

安治は賤ケ岳七本槍の一人に数えられ、明智光秀の丹波攻めでは援軍として黒井城の赤井悪右衛門直正を攻めました。

その脇坂安治の孫・安政が龍野城に入り、文久二年(1862)に安宅が安治を祀った神社です。 
   
   
龍野神社から相撲の神様・野見宿禰(のみのすくね)を目指したよ。

隣にあるこの場所だと思ってたら、横綱自筆の力石を見ながら奥の石段を登るよ登る。

垂仁天皇の頃、大和国の当麻蹶速(たいまのけはや)と、出雲国の野見宿禰が天皇の御前で「力くらべ」をしました。

勝った野見宿禰は領地を与えられ、朝廷に仕えたのです。 
   
   
当時は高貴な人が亡くなると、仕えた者は後を追って殉死する習慣でした。

野見宿禰は皇后の死に際し、出雲から人形を作る人を呼び寄せ、生きた人の代わりに土器の人形を埋めることを提案しました。

これが埴輪(はにわ)の始まりと伝わっているよ。

やっと展望台、隣の赤松村秀の鶏籠山城(龍野古城)と同じぐらいになってきたけど、まだ登る。
   
  
子孫は代々天皇の葬儀を司り、姓を菅原(すがわら)と改め、子孫には菅原道真がいます。

出雲に帰る途中、この地で世を去り、出雲から沢山の人がやってきて、川の石を運び上げて造ったお墓です。

だから石の扉の紋章は出雲大社の千家氏の家紋なんだね。

その人たちが「野に立つ」姿から「立野」、そして「龍野」になるんだね。 
   

    
赤松円心の五男で加東郡社町の三草山城主・則友(氏康)から分流した氏族のひとつ、城山平左衛門景近が居城していましたが、歴史の詳細は不明です。

『参考文献を参照』

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