加古川城

兵庫県加古川市西木町

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国道2号線を加古川を越えて東行一方通行をさらに300m、南への道を入ったところに「称名寺」があります。

このお寺が加古川城(かこがわ)の跡です。

加古川の橋を超えると、南側に「加古川城」の標識があるので、すぐにわかると思います。
   
   
この「称名寺」一帯が加古川城跡です。

ここで、秀吉の意見に同意しなかった別所氏は三木城で「干殺し」という結果になるんだよ。

  
「七騎供養塔」

暦応四年(1341)、塩谷高貞(塩冶判官高貞)の妻・早田夫人(顔世御前)が尊氏の執事・高師直の横恋慕を受け、それを拒むと逆心ありと言われました。

高貞は妻・子に二十余名をつけ丹波路から脱出させ、自身は手勢三十騎を連れて播磨路を出雲へと急ぎました。

高貞は同市米田町船頭の附近で追いつかれるのです。
  
  
「七騎塚の碑」

加古川橋の西岸にあるよ。

その時、弟の六郎、他七人が主を討たせまいとして、この場所にふみ止まり、足利の軍勢と激しく戦いましたが、遂に全員討死をしたのです。

そして妻子も播磨蔭山(姫路市豊富町)で追っ手に囲まれ、立てこもっていた草堂に火を放ち、命果てたのです。 
  
  
 のち山田佐右衛門が願主になり、この七騎追弔のため、加古川の小石に法華経を一石づつ書いて埋め、供養塔として建てようとしましたが、それを果たせず亡くなりました。

その後、寺家町の川西彦九郎、志方の桜井九郎左衛門が施主となって完成させたものです。
  
  
   
真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来で、寺の付近一帯が加古川城跡です。

天正五年(1577)加古川城で加古川評定(信長軍と毛利軍が戦うきっかけとなった会議)が行われました。

また糟屋(内善正)武則(12代加古川城主)は、黒田官兵衛の推挙により秀吉に仕え、三木合戦においては箕谷ノ上付城(三谷ノ上村城)に布陣し活躍したとされています。

また境内には地人が憐れんで建てた南北朝時代の7人の武者の七騎供養塔があります。

これは南北朝時代、出雲守塩冶高貞が加古川で追手に襲われた際、主君を守ろうとして奮死した従臣7名を供養するため建てられたものです。

後に塩冶高貞は、人形浄瑠璃等の代表的な演目「仮名手本忠臣蔵」に登場する塩冶判官のモデルとして取り上げられ、忠義話として紹介されました。

山門を入るといちょうの大木があり、このいちょうの木は昔から加古川の町の目印でした。

『現地案内を参照』

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