清水山城

兵庫県加東市社町平木

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国道372線で中国自動車道を越えて加東郡社町の上鴨川から311号線を南東へ、今回は東条湖の「おもちゃ王国」はがまんして、そのまま東へ走ります。

まもなく清水寺の参道口があり、その御嶽山の山頂には清水山城(きよみずやま)があります。
   
    
「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」

1800年前の景行天皇の時、印度の僧・法道仙人は、中国・朝鮮を経てこの山で鎮護国家豊作を祈願されました。

推古三十五年(627)、推古天皇の勅願により、根元中堂が建立されました。

この地は水に乏しく、水の神に祈ると霊泉が湧き出し、以来清水寺と名付けられました。
 
  
「仁王門」

ここまで延長3kmの山道、車で登り着いた駐車場の前です。

清水寺は「西国三十三ケ所」の二十五番目の礼所です。

兵庫県には二十四番の宝塚の中山寺、二十六番の加西の一乗寺、そして二十七番の姫路書写山の圓教寺があるよ、勉強になるね。

すごく新しいのは昭和40年の台風で全壊し、55年に新築されたそうです。
    
   
駐車場から仁王門をくぐり、しばらく参道を歩くと石垣が沢山、お城用ではなかったと思いますが、りっぱな石垣です。

この上には「月見亭」、反対側の一段下がった所にも建物跡や石垣が少し見えるよ。

短い期間だけど、お城探索をしていると妙に気になる参道、何があったのかな。 
   
   
「薬師堂」

大講堂手前には平清盛の義母「池の禅尼」が建てた薬師堂や地蔵堂があります。

他にも「本坊」「鐘楼」など沢山のお堂があるから、ゆっくりと見てまわってね。
   
  
「赤松氏範の切腹石」

赤松氏範はじめ一族が切腹したと伝わる石です。

その時、氏範の五男・乙若丸だけは薩摩へ逃げさせているのです。

赤松円心の子、加古川の天神山城主であった氏範、最後の地かと思い、静かに見つめてました。 
   

    
赤松円心には、4人の子・範資、貞範、則祐、氏範(氏則)がいます。

四男・氏範は東播磨の加古郡・印南郡・明石郡・有馬郡を所領し、加古川の天神山城を本拠としました。

元弘三年(1332)、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨で挙兵した円心は、鎌倉幕府を倒すために戦ったのですが、その論功行賞の内容が原因で天皇方から離れていきました。

建武二年(1336)、幕府滅亡後に生き延びていた北条時行は鎌倉で兵を挙げ、足利尊氏はこれを討ち破るも、京へ帰る途中で後醍醐天皇と決別、この時に円心や赤松一族も尊氏方に付きました。

ところが、この四男・氏範だけは天皇方に付いているのです。

康安元年(1361)、氏範は天神山城から有馬郡三田城に居城を移し、周囲には嫡男・氏春が道場城(蒲公英城とも言う:神戸市北区)、次男・家則は桑原城(三田市)、三男・祐春は船坂城(西宮市)、四男・季則に岡山城(三田市)を守らせました。

永徳三年(1386)、氏範は足利将軍を討つために京都を攻めたのですが、逆に敗れ播磨に引き返しました。

逆に幕府側は氏範を討伐する為に、山名氏清を大将に軍勢を差し向け、氏範一族が籠もる清水山を包囲するのです。

しかし簡単には落せず、続いて細川頼元の大軍が押し寄せました。

その追討軍の中には氏範の兄・則祐の子である義則、義祐兄弟の姿があり、氏範は同族と争うことを避け、父子五人・一族郎党百三十七人共々自刃し果てたのです。

『参考文献を参照』

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