小浜城

兵庫県宝塚市小浜

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中国自動車道、「宝塚IC」から国道176号線を少し西へ走ると北側の台地には小浜城(こはま)があります。

2006年5月、初めて来ました宝塚。 行き交う車は急ぐけど、新緑の頃にはゆっくり歩いてみたいよね。
   
   
宝塚の平野、丘陵の周囲には水堀と土塁をめぐらせた城塞都市があった。

町には三つの門がある、そして三つの街道が集まるよ。

江戸時代は宿場町、今では町並みとして保存されています。
  
  
「小浜宿資料館」

小浜宿案内図をいただく、町全体がよく分かるよ。 中には町並み模型、古いラジオもすごくいい。

20数件あった古い家並み、阪神大震災でほとんどが被害にあったんだ。
    
  
「山中家」

山中鹿之介の子・幸元には八男二女があり、長男の新兵衛(清直)が小浜に分家した、でもなぜ山中氏が宝塚に。

宝塚市の北に三蔵城がある、尼子氏が宝塚を領有していた時、家臣・山中鹿之介の弟が守っていた伝説がある、つながってくるかな。

裏庭には若水が湧く「玉の井」という井戸があるよ。
   
   
小浜は秀次が守っていました。

大河ドラマに出てくるかな、秀次が四国攻めの時、山内一豊、堀尾吉晴、田中吉政が付くよ。

でも、秀吉に秀頼が生まれると、秀次は謀反の疑いをかけられ三条河原で命を奪われる。

その時、秀次と縁のあった毫摂寺も焼かれてしまうんだ。
   
   
「毫摂寺(ごうしょうじ)」

明応年間(1492-1501)、本願寺の僧善秀が小浜庄を開いて建立しました。

小浜御坊とも呼ばれ、お城の中心となり繁栄してきたんだよ。

秀吉が有馬へ湯治に行く時、この毫摂寺(ごうしょうじ)で宿泊した。

そして千利休が「玉の井」の水で、お茶をたてたんだね。
   
   
「南門跡」

町の南、大堀橋の東側は「天守」とう地名、でも城跡の確証は分からないよ。

その南門が「西宮街道」、北門へ歩くと「有馬街道」、そして東門は「京伏見街道」に続くよ。
  
   
「首地蔵」

南門の西にある「首地蔵」。 道標には、英語で「Head Only」とある、見ると確かにそう。

首から上の病気を治してもらえるよ。 手前には相撲で大関になった谷風岩五郎のお墓もあるね。 
   
   
「京伏見街道へ」

町中歩くと「小浜工房舘(とんかち舘)」と「代官所跡」。 小浜は大工の町、お酒造りの町でもあったんだ。

資料館へ戻る、東に歩けば伏見街道かな。 小浜の町、どちらに歩こうかな、迷う道も街道なんだね。
   

   
天正六年(1578)、伊丹有岡城主・荒木村重が信長に叛くと、信長方の部将は小浜城に入り、有岡城を包囲しています。

翌年有岡城は落城、小浜は池田恒興・輝政父子が領有しました。

「本能寺の変」の後、秀吉の時代に池田父子は美濃国に移封となり、尼崎城主・三好秀次(のちの関白豊臣秀次)が領有します。

秀次は秀吉の姉・日秀の子で、最初は三好長慶の叔父・三好康長の養子で三好信吉と名乗り、のち羽柴秀次と改めています。

秀次が没後、小浜城は秀吉の蔵入地となり、江戸時代には宿場町として栄えたのです。

『参考文献を参照』

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