兵庫県相生市陸光明山 | |
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新幹線相生駅から直線にして3km、ひたすら北へ歩くと標高261mの光明山。 その西尾根には光明山城(こうみょうせん)があります。 2005年3月、光は春が来たことを教えてくれる。 相生には赤松氏のお城が沢山、ここも大きなお城、でも何故がんばるのかな。 |
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目がチカチカするかな、ごめんね。 撮った写真を上下逆にしているよ。 何故、こうまでして立っているのか。 その意味が分かるような気がしたよ。 |
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鮎帰川、新幹線相生駅に車を置いて歩きます。 駅の中にある観光案内に「感状山城」と「光明山城」が載っていたのはびっくり。 姫路駅から姫路城みたいな絵だけど、タクシーで行きたいような遠さだよ。 右下に逆さになっているのが「光明山城跡の碑」、根性でぶらさがっているよ。 |
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道をひたすら歩く、光明山までは1時間半ぐらいかな。 軽トラなら行けそう、でも途中で道が崩れてるとこもあるよ。 頭の中には何も浮かばない、途中イノシシが横切ったような気がするけど何も浮かばない。 |
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途中の川を隔てた所、竹林の中にある。 屋敷跡なのか、土止めなのかな。 分からないけど嬉しい。 |
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やっと着いた、光明山の三角点。 道から入って30mぐらい登るかな、登り道には石垣と思われる跡があったよ。 山頂には小さな平削跡が二つ、たぶん見張り用なんだね。 |
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山頂から降りて、また少し歩くと竹林がある。 この上なんだよ、下側の竹がいっぱいある所も郭みたいだ。 一番、西の端と思われる所から登ってみるね。 |
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お城は東西200mの尾根上に築かれた、すごく大きな城跡だよ。 西から登ると七段の平削地、その周囲は一段下がって腰郭が全体を囲んでいる。 |
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全体の南斜面には所々に石積みが見られる。 落ちてきそうな感じだよ。 木々が阻むので、上がったり下がったりしながら横に進みます。 まっすぐに歩けないので、実際には何個の郭があったのかは難しい。 |
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ほぼ尾根の中央だと思う、はっきりとした郭跡になる。 石はあちらこちらに沢山転がっているよ。 相生市には比高200m以上の山城は2つ、感状山城と光明山城。 |
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主郭と思った所、大きな木が倒れていた、根が掘りおこされて、その中には大きな岩盤があったよ。 どこかに五輪塔があるはず、どこだったのかな。 |
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主郭から東にも3つの郭、そして空堀が2列。 これ以上は東へ行けないよ。 このまま東に行くと大きな谷があって、そして光明山頂へとつながっている。 それにしても大きなお城だよ、郭が20、横堀6、堀切り4、竪堀5、空壕2、畝形の土塁5、そして周囲の腰郭だよ。 |
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見えたのはわずかな隙間、北側の山だね。 感状山城の方角、大きさに比べて少し感状山城に遠慮しているような風景だよ。 下りは1時間、相生の駅まで帰ってきた。 もう一度見た、逆さでがんばる城跡の碑。 「小さな川の上流に、大きな城跡があるんだ」、そう言いながら、がんばっているんだよ。 |
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元正天皇(715-23)、乙春朝臣が初めて城を築いたと伝わっています。 建武三年(1336)、赤松円心が築城してから後の城主については諸説がありそうです。 その1.南北朝時代には大嶋城主・海老名弾正景知が居ました。 足利尊氏が九州へ逃れた時、討伐軍の新田義貞が播磨に攻め込み、円心の白旗城を包囲した時に海老名景知は弟・詮季と泰和など一族を率いて白旗城に籠もった人物です。 その2.応安年間(1368-75)、円心の孫・義則が在城し、永徳年間(1381-84)には白旗城に移っています。 義則の頃が赤松氏の全盛期、室町幕府の三管四職の四職(一色・赤松・京極・山名)という要職に付いています。 その3.室町時代には、那波浦城主・宇野重氏が入り、応仁の乱後に宇野政秀が居ました。 政秀は光明山の東にある平井城(龍野市揖西町小神)の赤松村秀を助けて、初代・鶏籠山城主(龍野古城)としました。 この村秀は政則と側室との間に生まれ、置塩城を出されて政秀に預けられ、鶏籠山城主になってから子に政秀の名を付けたので、よく混同する人物です。 その4.赤松政秀が塩屋城(揖保郡御津町)に移ると、揖東・揖西の両郡代である内海弥四郎が入りました。 その5.赤松氏の家臣・松原掃部頭が城主となりました。 松原氏は神戸市北区の蒲公英城を思い出すけど関係はあるのかな、それとも姫路市白浜の松原構居と関係あるのかな。 その6.その後、肥塚肥後介が城主になったとも云われています。 肥塚氏は鎌倉時代に播磨へ下向した東国武士、のち赤松氏の被官になった梶山城主(揖保郡揖保川町)だよね。 『参考文献を参照』 |
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