兵庫県神戸市須磨区大手町 | |
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第二神明、「須磨IC」で降りていつも渋滞の65号線を下り、すぐに21号線を東へ曲がります。 第二神明高架をくぐり、北へ曲がると1kmほどの山側には、松岡城(まつおか)があります。 |
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南北朝時代、赤松円心の子・範資が築いたお城です。 勝福寺や背後の山が松岡城と云われている。 須磨寺から歩いてきた、少し遠くから見ると山頂はお城跡と分かるよ。 山頂の木が数本立っている、山城に行かれている方は、その感じがわかると思うよ。 |
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「八十八ケ所」 お寺の前の道、大手町とある、山門の下には「源平ゆかりの地」ともあるよ。 平清盛が経ケ島築造(兵庫)の時、お寺の衆徒達が大いに協力し、平知章の甲冑も所蔵されています。 清盛の四男・知盛の長男が知章、東の長田区の明泉寺には知章の五輪塔があります。 この八十八ケ所から上ってみるね。 |
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上り始めて途中、左へ入る道がある。 お城は左のような気がした、でも右へと進んだよ。 ここは山頂、手前に広い平坦地がある、奥には一段下がって堀がありそうな気がする。 そうそう、遠くから見ると、こんな感じのもっと大きな木が見えるのが山城なんだよね。 |
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須磨海浜公園まで帰るよ。 途中、山陽電車「須磨寺駅」と「月見山駅」の間、離宮道の踏み切りにある、なんだ毎日通る道だよ。 平安時代の在原業平の兄・行平の一首が光孝天皇の怒りにふれ、須磨の地に流されました。 ここで2人の娘に出会い「松風と村雨」の名をつけて愛したんだ。 でも三年経って別れた、どんな話なのかな。 |
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「安徳帝の碑」 やっと海浜公園、「戦い浜」の碑から北へ上るよ。 須磨一ノ谷で敗れた平氏は、屋島そして壇ノ浦へ。 そして平家は滅亡、安徳天皇は祖母・平時子に抱かれて入水、八歳で崩御されるのです。 毎日見ている風景なのに、歩くと沢山の史跡に出会うね。 さあ600城、どこを歩いているのかな。 |
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貞和五年(1349)、足利尊氏方の畠山直宗や上杉重能らは、尊氏の弟直義に高師直・師泰の排除を進言しました。 直義は尊氏に迫り、師直の執事職を罷免させ、師直追放を図ります。 これを知った師直は、兵を集めて直義を討つと、直義は尊氏邸に逃れ、師直は尊氏邸を囲みました。 尊氏は、畠山直宗と上杉重能と配流させ、直義の政務への関与を止めさせ、代わって尊氏の嫡子・義詮を政務させることで師直の包囲を解くのです。 直義は出家すると、養子・直冬(尊氏の子)は備後国鞆津から東上し、直義を援けようとするのですが、師直の命を受けた赤松円心に阻止され、逆に直冬は九州へ逃れました。 観応元年(1350)、九州へ逃れた直冬は肥後の河尻氏に迎えられ、少弐氏や大友氏も加わり勢力を立て直すと、尊氏は直冬を討つために九州に向かいました。 その間に、直義は河内の畠山国清や石塔頼房、細川顕氏らと兵を挙げ、関東の上杉憲顕も加わり、高師冬を襲います。 観応二年(1351)、尊氏は備前から兵を返し直義に対抗するのですが、京都ついで摂津で敗れ、籠ったのが松岡城なのです。 尊氏は師直・師泰の出家を条件に和議を図るのですが、京都へ向かう途中、上杉能憲によって師直・師泰は命を奪われました。 『参考文献を参照』 |
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