三日月藩陣屋

兵庫県佐用郡佐用町乃井野

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JR姫新線の「三日月駅」を1kmほどの北側に「味わいの里三日月」があります。

そこから更に500mほど入った辺りが三日月藩陣屋跡(みかづきはんじんや)になっています。
    
    
藩邸跡の石垣に架かる「通用御門橋」です。

現在、この場所は復元工事が行われているため、敷地内に入ることはできませんでした。
 
  
 藩校「広業館」、とても歴史を感じる建物です。

藩邸のすぐ隣の歴代藩主を祀っている列祖神社(れつそ)にあります、江戸時代の「広業館」の一部をこの地に移しました。

盛んな時には、生徒数は580名にも達し、文学や武芸を多くの人に教えました。

明治の廃藩置県で、名も「広業尋常高等小学校」と改名し、そして「三日月小学校」となっていったのです。
   
   
三日月駅から2kmほど東にはある「織田家屋敷」です。

ここは三日月宿の本陣だったそうです。 
   

    
元禄十年(1697)、美作郡の森長俊が藩主として移って来たのが始まりです。 この森家は、源義家を祖に持ち、織田信長に仕えて岐阜の五人衆といわれていた家柄なのです。

そして本能寺の変で信長とともに、討死をした森蘭丸もこの一族で、蘭丸の弟・忠政が豊臣秀吉・徳川家康に従って、岡山の津山藩の大名になりました。

そして忠政の孫・長俊は分家であったので、この三日月藩に移ってきたのです。

長俊は藩邸を建設し、町割りを進め、さらに千種川の支流である志文川の街道沿いに、商家を配置して宿場町としての整備も行いました。

初藩の長俊は、幕府から鍛冶橋の警護を努めたり、一方では風流人としても知られていました。 京都の玉水の蛙を庭に放して鳴き声を楽しんだり、葵や牡丹を栽培していました。

二代目・長記は狩や漁を好み、夜も寝なかったので「森の夜鷹」と呼ばれていました。

五代目・快温は広島藩浅野家から養子として入り、学門に熱心で私財を投じて、藩校の「広業館」を作りました。

ここへは他藩から多くの人が学びに来たといわれています。

九代目・俊滋の時には、黒船の来航で世の中が騒がしくなり、大きな訓練所も作りましたが、 明治になって、百七十年続いた三日月藩の歴史は終りを告げたのです。

『参考文献を参照』

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