三木城

兵庫県三木市上の丸町

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国道175線「高木交差点」を降りて北東約1.5km、神戸電鉄三木上の丸駅の前方に三木城(みき)があります。

この城は何度か訪れましたが、一度もまともに行くことができませんでした。
    
    
「別所長治、辞世の歌碑」

本丸跡の天守台に立っています。

三木城は御着城、英賀城とともに播磨三大城郭の一つといわれています。
 
  
「三木合戦図」

よく見ると「干殺し(ひごろし)」の城内の悲惨な姿が描かれてる、怖いよ。
    
   
「三木城包囲図」

こんな沢山で三木城を囲んでいたんだ。

秀吉は南側に明石の魚住から陸揚げされた毛利軍の兵糧道を遮断する為、全長4kmの包囲網土塁も築きました。

そして平井山本陣(右上の少し大きいところ)を構え、三木城を見下ろしていたんだね。 ここで竹中半兵衛が亡くなっているよ。

でも、いくらなんでも、ここまでしなくてもと思う。  
  
   
天守台は小高い場所、三木市内が見渡せるよ。

周りをいっぱい囲まれ、ここで数千の人たちが草木を食べていたんだ。

でも今は静か過ぎる時間が漂っているよ。
   
   
別所長治、照子夫人の首塚です。

遠くの国の話ではない、400年前の日本。 信長が敵で毛利が味方、たまたまそれだけの運命なのに。

数千人の人々を二年間も閉じ込め「勝った、落ちた」と喜び悲しみ。 

よく考えてみて、この写真を撮って「探索だ」と言えるのは、生まれた時間が違うだけ。

6500万年の時間を持つ人間、400年は一瞬の時差なんだね
  

    
別所氏は播磨の守護赤松氏の一族です。 源季則の二男が平安時代中期の永暦元年(1160)に別所城を築き、別所氏を名乗ったのが始まりです。

別所氏は、清次、清光、頼光、範光と続くのですが、後継ぎがいなかったので、白旗城赤松円心の弟・敦光(円光)を娘婿として迎えました。 のち敦則、則光、則康、則忠、則治と継承されています。

嘉吉元年(1441)、嘉吉の乱で赤松氏が滅亡した時に、別所則康、則忠も討死したのですが、幼い則治は生きのびました。

その後、赤松政則(置塩城主)が赤松氏の復活にのろしをあげた時、則治も共に戦い三木城を回復したのです。

赤松氏不在の時に播磨を支配していた但馬の此隅山城主・山名氏を播磨から追討する戦いに参加し、その功績で東播八郡を与えられ、則定、就治、安治、長治と勢力を伸ばしてきました。

天正六年(1578)、織田信長の中国攻めで長治は先導役をつとめるはずでしたが、毛利氏と通じて、突然信長に叛旗を翻しました。

信長の残虐さを嫌っていたし、いづれは自分たちも滅ばされると不安を持っていたのです。 そして秀吉の攻撃に対抗するために、籠城の準備と神吉城、野口城、志方城、淡河城などの支城の守りも固めました。

しかし秀吉は支城から落とし、三木城を孤立無援にして「干殺し」といわれる兵糧攻めを行ったのです。

当初籠城人数は七、八千人でしたが、そこへ秀吉は敗兵を入れさせました。

毛利勢の支援もなく、食べ物も尽き、草木も食べ尽くし、この世の地獄図が描かれついに長治は自刃、二年にわたる籠城が終り三木城は落ちたのです。

『参考文献を参照』

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