南山構

兵庫県揖保郡太子町揖保山

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姫路バイパスを西へ、姫路西ランプを過ぎて山田トンネルを抜けてから一般道の国道179号線を西へと走り、太子町の「鵤(いかるが)交差点」を南へ曲がると、すぐ太子町役場があります。

その南には標高30mの太子山公園に南山構(みなみやま)があります。
   
    
太子町「斑鳩寺」の南にある太子山。 今では公園になって、南側には蒸気機関車D-51もあるよ。

向こうに見えるのが石蜘蛛城がある立岡山。

南北朝時代には新田義貞が赤松円心の白旗城を討つために陣を構えたそうだよ。 鎌倉時代から天正の頃には島津氏が城主だったんだよ。
 
  
「斑鳩寺の三重塔」

606年の推古天皇の時、聖徳太子は天皇から頼まれ、勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じて、この揖保郡を賜りました。

太子は「斑鳩荘」と名付け、ここに寺院を建てたのです。
  
   
「赤松政秀・広英の供養塔」

天文十年(1541)、赤松氏と山名氏の争いで焼失しました。

龍野城主・赤松政秀らの寄進を得て再建されたそうです。

ここに赤松氏の名前があったこと自体に感動です。 
   

    
永禄年間(1558-70)、南山構は五百井繁広(いおい)が築いたといわれています。 でもこれ以上の詳しい話は分からないので、聖徳太子の話を書きます。

六世紀後半、日本に仏教が伝わりると、その受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏が対立しました。 蘇我氏は受け入れに積極的で、物部氏は反対したのです。

用明二年(587)、ついに用明天皇の皇位継承問題が引き金となり、蘇我馬子と物部守屋との間で争いが始まるのです。

物部守屋は大阪の河内で軍備を整え、一方、馬子は紀氏、巨勢氏、膳氏、葛城氏、大伴氏、坂本氏、安部氏、平群氏、春日氏らの連合軍で河内を攻めました。

一時は蘇我氏が苦戦となり、その時、厩戸皇子(うまやど)はもし勝てた時には木で四天王像を刻み、お寺を建てると誓い、馬子も大神王の為に寺を建てると誓いました。

そして、物部守屋に矢があたり、物部氏は滅亡するのです。

この合戦の後で建てられたのが「法隆寺」と「四天王寺」で、厩戸皇子はのちの聖徳太子なのです。 そして聖徳太子は第三十三代・推古天皇の摂政となり、蘇我馬子は政治の中枢を握っていくのです。

蘇我馬子の子・蝦夷、またその子が入鹿で、中臣鎌足と中大兄皇子が入鹿を殺害したのが、「大化の改新」の始まりなのです。

『参考文献を参照』

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