兵庫県三木市吉川町稲田 | |
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中国自動車道、「吉川IC」で降ります。 南の県道17号線を東へ1kmほどで若宮神社、その200mほど東の高台には宮脇城(みやわき)があります。 東は三田、西は三木、京都と姫路を結ぶ昔の路にも沢山の城跡があるんだよ。 |
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「若宮神社」 この前の道は、「嘉吉の乱」の時に赤松満祐が将軍・足利教義の首を持ち帰った道らしいよ。 この神社では、毎年10月1日に「ヤホー神事」が行われます。 境内で御神歌を歌いながら行列をして歩き、「やま」になると蚊帳に入った子供が問答する神事だよ。 |
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神社から東へ200mぐらい、道の南側に城跡らしき高台があります。 この辺り一面が段々になってる、確証はないけど、いかにも何かあった所だよ。 小さな社もあるし。 |
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「御旅所」 若宮神社から、天狗(猿田彦)とお多福(天鈿女:あめのうずめ)が先払いを努めた神輿が、この御旅所で休息をします。 右向こうに見えてるのが、上の社のある高台だよ。 地図で見ると、昔の道は美嚢川の北側、ここより北の役場よりも北側だったのかな。 |
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この美嚢川沿いの道、東1.5kmには毘沙門城があります。 毘沙門城は藤田氏の本拠で、ここ宮脇城は藤田幸綱(広興)が支城として築きました。 応仁の乱の時、東軍・細川勝元を援護する為に、四国の阿波守護・細川氏は京都に上り、その時に家臣・三好之長も京都に来て以来、三好氏は近畿での勢力を拡大していきました。 天文十一年(1542)、四代後・三好長慶は足利義輝を擁立して幕府の実権を握るのですが、その後長慶と義輝の仲は悪くなり、永禄元年(1558)の「京都北白川の合戦」で義輝を近江へ追放しました。 この合戦の時、藤田幸綱は三好方として参加しているのです。 天正六年(1578)、秀吉の三木城攻めが始まると藤田幸綱と子・右近は別所方として三木城に籠もりました。 三木城が落ちると父子は毘沙門城に帰り自害。 そして秀吉が毘沙門城を焼いた時、この宮脇城も落城しました。 『参考文献を参照』 |
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