籾井城

兵庫県丹波篠山市福住

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篠山城がある市内より更に東へ走ります。 デカンショ街道を通ると篠山市の東方には「福住小前交差点」があります。

この交差点の北側に禅昌寺、その背後には標高394m(比高150m)白尾山に籾井城(もみい)があります。
    
    
本丸には大正13年に東宮御成婚記念の「籾城公園の碑」が立っています。

黒井城主・赤井悪右衛門が「赤鬼」なら、ここの籾井教業は「青鬼」と呼ばれていたんだよ。
  
   
「白尾山(はくび)」

右には国道372号線、姫路から篠山市を通って京都亀岡市まで続いてる、南の天引峠を越えれば大阪空港の近くへも行くよ。

よく言われる交通の要衝だね。

右の麓には禅昌寺と案内があるから近くに寄るね。
     
    
という間に麓です。

ここも丹波篠山五十三次の道標、まだ6つぐらいしか見てないけど、シリーズにしようかな。

案内や道標を見ると嬉しい、姫路市も何かアイデアを考えたいよね。
   
    
「金刀比羅宮」

案内から少し歩くと「大砲山 あずまや」、そこには大砲があるよ。

太平洋戦争の時に対空監視所があったからかな。

そして金刀比羅宮へと着く、この辺りが出城らしい。
    
    
「腰郭」

鳥居からかなり歩くと、やがてお城の雰囲気に変わる。

小さな堀切を越えると南の郭から最高所まで180mの郭が続く、もうすぐ主郭だよ。

その周りは腰郭になっている、すごく大きいのでびっくり。
    
    
「虎口」

この上は碑がある主郭、南側に2箇所の虎口があるよ。

ところで「虎口」は「こぐち」と読んでたけど、日本語大辞典には「ここう」とある、ひょっとして今まで間違っていたのかな。

その意味は「トラの口」とある。

あまり知らない事を口に出すと「虎穴」に陥るとある、ますます分からないね。
    
   
「堀切」

主郭から更に北へ行くと大きな堀切、ここで大木や石を転がして敵30あまりを討ったとある。

実は前から堀切も不思議と思っている、大抵はジャンプすれば渡れそうな大きさだし。

油の葉っぱを敷くと、かってに向こうへすべって落ちていくのだろうか。
    
    
「半左兵衛の供養塔」

悪天候続きで不作の時、半左兵衛は上流から溝を掘りました。 もし火事になった時にも消火の役に立つと考えたからです。

でも、かってに掘ったことを篠山藩が知り、打ち首になったのです。 それから17年後に火災が起こり、村人は供養塔を造りました。

それでも51年後、10年後そして明治にも火災、人々は供養塔に四季の花を供え、火の用心に務めているのです。

丹波篠山の道、次の「五十三次」を探しにいくね。
     

   
天正年間(1573-92)、京都府船井郡の八田城主・籾井越中守教業(のりなり)が築いたと伝わっています。

教業は八上城主・波多野秀治に属し、秀治の弟・秀尚が亀山城にいた時に八田城に籠もって援護をしました。

天正五年(1577)、明智軍の藤堂高虎と明谷川付近での激戦で敗れ自害、そして籾井城も落城するのです。

教業は明智光秀を撃退し続けたので、「丹波の青鬼」と恐れられていました。
    

    
籾井氏は清和源氏佐々木氏の子孫で、代々足利氏に仕えていました。

永正年間(1502-21)、籾井河内守照綱が城を築き、嫡男・右近太夫綱重が継いで、東に安口城を築いて守りを固めていました。

籾井綱利の頃、光秀の丹波攻めではよく対抗するのですが、籾井城落城で綱利は自害、父・綱重は綱利の子・太郎左衛門孝高をつれて山に身を潜め、のち京都に上り福泉(ふくずみ)と称して代々藤堂家に仕えたと伝わっています。

と、2つが伝わっているのですが、光秀に落とされたのは同じでも、一方は藤堂家と戦い、もう一方は藤堂家に仕えています。 考え込んでしまいますね。 
『参考文献を参照』

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