村岡藩陣屋

兵庫県美方郡香美町村岡区村岡

 Top 兵庫県のお城一覧
 
9号線を鳥取方面へ走ります。 スキー場の「ハチ高原」を西に見ながら美方郡村岡町に入ります。

さらに7km程走ると「御殿山公園」、西側に「まほろば」と村岡の街並みがあり、その街が村岡藩陣屋(むらおか)です。
    
   
村岡藩陣屋は3回来た、一回目、一番下の写真「村岡商店街」を写真に収め満足。

村岡に降る雨は突然です、で帰る。

二回目、山名氏関連のお寺「法雲寺」「巌浄寺」を見て満足。
何かまだありそう。

三回目、国道の東側に陣屋跡があった。 まさか山の上とは思ってもみなかった。
 
  
「まほろば」

国道を隔てた「御殿山公園」への山を登っているよ。

「まほろば」は明治27年に洋風スタイルを取り入れた美方郡の役場で、現在は「民族資料館」だよ。

中には縄文早期の石器や土器などの考古資料を収蔵している。

2万年前に村岡人がいて、2200年前の弥生時代の朝鮮で作られた鉄の器もあるよ。
   
   
「御殿山公園」

昭和33年、ここには村岡高校(八鹿高校村岡分校)が建てられ、高校跡地を公園にしています。

歴史資料館に行きたかったけど、「奥方部屋」が目に入ったので、すぐに向かいます。(左へと降りる) 
   
   
「桜山御廟」

中央は十一代・義済、右は十一代・義路、左には十三代・義鶴を祀っています。

寛永三年(1624)、初代・山名豊国は京都で没し、墓は京都花園東林院に造られました。

三代・矩豊が国入りをする時に、村岡町萩山の十二峠(ほい)にも墓は造られています。

二代目・豊政は東京青山の「山名家墓所」で、三代から十代義問までは、ここから北へ100mの「壺渓墓所(つぼたに)にあるよ。 
   
   
「奥方部屋」

桜山御廟から降りた所にあった。 誰かいそうな家、部屋の奥までちょっとだけ見た。

ここの平地、まさに陣屋の建物があったと見た。
   
   
「村岡山名陣屋」

平成二年、商店街の入り口三箇所に山名の定紋「糸輪二引両」の門を造りました。

日本の六分の一の国を持った山名氏、但馬の山名氏は秀吉に滅ぼされ、鳥取城攻めで秀吉に付いた山名氏が但馬の国で現在まで続いている。

「むかしむかし、但馬の国に山名氏という人がいたそうじゃ、山に城を築き、敵も味方も分からない時代を生き抜いたそうじゃ」

そんな昔話を聞くため、もう一度来るよ。 四回目も聞かせてね。
  

   
この地は往古、七美(志都美)と言い、また一二分庄とも黒野村とも称していました。

寛永十九年(1642)、村岡山名氏三代伊豆守矩豊公が初入部された時、福岡にあった陣屋をここに移し、町割りを定めて城下町経営に力を尽されます。

公はまた、黒野村の名を村岡町に改め、空山を蘇武岳、中小屋川を毘陽川にと、中国の故事に習って改称するなど、名実ともに七美五郷の首として充実をはかられています。

以後山名氏十二代に至るまでの230年間、政治経済の中心地として繁栄したが、明治廃藩後、各種の官公署も次第に他町へ移転するなどで昔日の面影が薄れてきました。

平成二年春、地域の振興を願う有志が力を合わせて、村岡商店街の入口三か所に、山名氏の定紋「糸輪二引両」を打った門を設置しました。

『現地案内を参照』

 Home Top 兵庫県のお城一覧
ink 2 nk