室山城(室津城)

兵庫県たつの市御津町室津

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国道250号線(通称:浜国)を御津町に入り、綾部山梅林を過ぎてから「七曲り」と呼ばれる海岸沿いを走るとまもなく海側には室津の街が見えます。

ここ室津は街全体が丘で、その山頂には室山城(むろやま)があります。
  
  
室津は奈良時代の僧・行基が開いた播磨五泊の一つで、古くは「むろうのとまり」と呼ばれていました。

この五泊は東から、河尻(尼崎)、大輪田(兵庫)、魚住(明石)、韓(的形)、そして室津です。
 
  
この草で包まれたところ。 一体何があるのかな。

室津の街は沢山の見所があります。 2時間もあれば一周できるので、ゆっくりと歩いてくださいね。 今回はできるだけ、物語を載せてみました。
  
  
「お夏・清十郎」の清十郎はこの室津で生まれています。

姫路本町の米問屋但馬屋に奉公した清十郎は、主人の妹・お夏と恋仲になりました。

しかし、その恋は許されず、二人は駆け落ちをして捕らえられ、清十郎は盗みの濡れ衣で処刑、お夏は発狂して街をさまよい歩くのです。

室津にはお夏の入水説が伝わる浄運寺蔵「お夏木像」、また姫路城から車で5分ほど北の慶雲寺には「お夏・清十郎」の塚があります。 
   
   
「室津海駅館」

室津の街並みです。

江戸時代、室津は海の宿駅として繁栄し、この地で廻船問屋を営んだ豪商・嶋屋(三木)半四郎が江戸後期に建てたものです。

大名の宿舎を本陣といいます。 普通、一つの宿場町には一つの本陣が原則のところ室津には幕府の許可を得て六軒の本陣が認められていました。
   
  
「室津民俗館」

江戸参勤交代の制度が行われていたころ最も栄え、当時の面影が今に残っています。

ここ海産物問屋の豪商「魚屋」の跡も、昭和40年代には建物の老朽化による、建て替えの時期がきました。 そんな中で本陣も姿を消し、わずかに脇本陣として豪商家屋2戸が残りました。

そのうち1戸が資料館として生まれ変わりました。
   
   
「見性寺(けんしょうじ)」

平安朝・藤原時代の作「毘沙門天立像」があります。 浦上村宗は赤松義村を見性寺に幽閉し殺害しました。

のち、龍野城の赤松村秀は、浦上清宗と黒田職隆の娘との婚礼の夜に室津城を襲い、浦上政宗・清宗と16歳の花嫁を討つのです。  その時、室津城は炎上し廃城となりました。

城下の人々はこの悲しい出来事を忘れるため、桃の節句を旧暦8月1日に延ばして「八朔(はっさく)のひな祭」にしました。
   
   
「巨石の由来」

豊臣秀吉が大坂城を築く時、西国の大名が運ぶ途中「室の泊」で海中に落としたものです。

昭和47年に室津漁港工事の際に引揚げられて、湊口番所跡に置かれています。

こんなところで大坂城の石垣が見れるなんて。
   
   
「賀茂神社」

1823年、ドイツの開業医・シーボルトは、学生時代に日本が紹介された本を読み、日本渡航への夢をいだいていました。

27歳で長崎に着き、楠本滝という女性と知り合って結婚し、娘・いねを授かり、翌年、長崎郊外に医学の鳴滝塾を開きました。

1828年、長崎港に停泊中のオランダ船が台風で大破し、積み荷は岸に打ち上げられ、その中に国外持ち出しが禁止されている日本地図やシーボルトの荷物がありました。

シーボルは日本への入国禁止の処分を受け追放されました。(シーボルト事件) 
   
   
「表参道のソテツ」

20代半ばになった娘「いね」は宇和島藩をおとずれ、西洋医学で日本初の女医になるのです。

本殿西の石垣にはシーボルトが「建築上の真の名作」とたたえた多宝塔が明治時代まで建っていたそうです。 
   
   
「貝堀の井戸」

浄運寺から海側へ降りた所に淡水の井戸があります。

法然上人が飲み水に困 っていた人々のために、貝で掘ったと伝えられ、海のそばにありながら、上質の真水が絶えることがないそうです。
   
   
「遊女友君の墓」

浄運寺の前、海が見える高台にあります。

木曾義仲の夫人で山吹御前だったと伝えられる友君は、この地に移り住んで旅人の旅愁をなぐさめていました。

この友君は遊女の始祖といわれていますが、晩年は仏門に帰依し、義仲の冥福を祈ったそうです。  
   
  
 「室津漁港」

物語が多すぎて、とても1ページでは語れないよ。 播磨風土記は語ってくれてるね、ほんと波は静かだね。
   

    
都が奈良から京都に移されたのは794年、平安時代は藤原氏を中心に貴族政治が行われました。

その頃、地方では豪族や有力農民が荘園や郡司の地位を利用して武士団を結集しはじめ、その最大のものが源氏と平氏で、中でも「桓武平氏」「清和源氏」が二大棟梁となりました。

後白河法皇は、源氏軍の木曽義仲(源義仲)に平家追討と京の治安維持を命じたため、平氏は西海へ落ち、屋島を本拠地として勢力の回復を図りました。

寿永二年(1183年)、義仲は平重衡、通盛らの平氏軍と備中水島で戦うのですが大敗し、しかも法皇は源頼朝に「十月宣旨」を発し、義仲追討の命を下しました。

義仲は京に帰り、後白河法皇の法住寺殿を攻め、法皇を五条東院へ幽閉するのです。

義仲が京に帰ると、代わって頼朝の叔父に当たる源行家が兵を率いて播磨に入りました。 これを迎え撃つために平教盛・重衡は、ここ室山に陣を張ったのです。

行家の軍勢はさんざんに打ち負かされ、行家は命からがら播磨国から和泉国へ逃げ延び、河内長野の城へ引きこもりました。

寿永三年(1184)、こうして水島、室山両合戦に勝利を治めた平氏は、かつて平氏が遷都した摂津福原(神戸)に戻り、のち「一ノ谷の合戦」へと続くのです。

  
  建武二年(1335)、鎌倉で挙兵した足利尊氏が京都の戦いで敗れ、九州へ敗走する途中、赤松円心は新田義貞の追討軍を阻止するために、この室津で山陽道諸国や四国の大将を定めました。

そして円心自身は白旗城の守りを固め、長男・範資に播磨と備前の兵三千騎を付けて、ここ室山城の防衛にあたらせました。

新田義貞は大館氏明と江田行義に命じて室山城を攻撃させ、範資は敗れて白旗城で合流し、室津は新田方に制圧されたのです。

しかし円心は白旗城で固く守り、義貞が攻めあぐねているうちに、九州で勢力を回復した尊氏は海陸両道から大軍を率いて東上してきたので、義貞は白旗城の囲みを解いて兵庫に退きました。

円心は室津で尊氏と再会し、合流して湊川の合戦へと向うのです。

  
 嘉吉元年(1441)、赤松満祐は将軍・足利義教を殺した「嘉吉の乱」で、一族である赤松満政が室津に上陸して城山城に籠もる満祐を攻めました。

この時、満祐の弟・義雅は幼児千代丸(のち時勝で政則の父)を連れて満政の陣に降参し自害、千代丸は満政の手で室津にかくまれて、のち義雅夫人の実家三条家に身を隠すのです。

嘉吉の乱の恩賞で播磨守護職になった山名宗全は子・政豊に室津城を守らせました。

康正元年(1455)、赤松の残党は機会をうかがい、赤松則尚(満祐の孫)は兵を集めて、斑鳩の壇持山に挙兵し、室山城の山名政豊を攻めたのですが、但馬から山名教豊が援軍を率いて書写坂本城に入り、則尚らは備前の鹿久居島(かくい)に逃れ果てるのです。

応仁の乱が京都で起こると、置塩城主・赤松政則は播磨・備前・美作を回復し、備前の三石城主・浦上則宗に室津城を守らせました。

政則が没した後、浦上氏は政則の未亡人・洞松院(細川勝元の娘)と組んで政則の子・赤松義村と対立しました。

大永元年(1521)、浦上則宗の孫・村宗は義村を室津の見性寺に幽閉し、雨の夜に襲って殺害するのです。

『参考文献を参照』

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