兵庫県西宮市山口町中野 | |
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中国自動車道、「西宮北IC」から国道176号線へ入り、「新明治橋」から98号線を有馬川に沿って南へ走ります。 1kmほどで「金仙寺口バス停」、すぐ南の道で有馬川を渡り、川岸の道を南へ入ります。(自動車道からは入れないので、南側から川岸を北へ進んだ方がいいです) そして有馬川の畔には秀吉大明神、その地が中野城(なかの)です。 |
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ここは秀吉大明神、有馬温泉から真北2kmぐらいにあるよ。 中野の街は昔から「有馬かご」の竹職人さんで知らています。 そして地元では「城垣内」と呼ばれるお稲荷さん、そこには秀吉の名も見えるんだよ。 |
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「有馬川」 そして昭和、有馬氏の後裔・有馬頼寧が理事長をしていたのが、中央競馬会。 その記念すべきレースが「有馬記念」。 今は冬、もう一度来てみたいな有馬川。 思い出すのは寒い頃、それとも暑き夏を思うかな。 |
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この中野城には有馬法印則頼が居たと伝わっています。 赤松円心の子・則祐には義則、時則、満則、祐秀、義祐の子がいました。 この五男・義祐は守護代として有馬氏を名乗り、神戸市北区の有野で居を構え、「明徳の乱」の時に山名氏を制圧した軍功により、有馬郡で勢力を拡大していきました。 のち有馬家は持家・元家・則秀・澄則・村則・村秀・国秀が嫡流で、澄則から分かれた庶流家は則景・重則・則頼と続きます。 この則景が三田市に居を構え、重則の頃に三木市の満田城(三津田)に移り、そこで重則と細川澄元の娘との間に生まれたのが有馬法印則頼なのです。 天文二十三年(1554)、有馬重則は三好長慶に従って三木城を攻めた時、北区の萩原城を落とし、重則は萩原城主になりました。 天正五年(1577)、秀吉が播磨姫路に来た時、則頼は忠節を尽くしました。 三木城攻めが始まると、則頼・則氏父子は杉原七郎左衛門家次、浅野弾正長政らと淡河城を攻め落とし、萩原城から淡河城へ移りました。 慶長六年(1601)、則頼は関ヶ原の戦いで家康側に付き、その後は三田藩主、子の豊氏は福知山藩主となりました。 則頼が世を去った後、有馬氏は福知山から久留米藩主へと続くのです。 『参考文献を参照』 |
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