中筋構居

兵庫県高砂市中筋

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JR曽根駅から南の明姫幹線(国道250号線)を東へ走り、「中筋東交差点」を北へ入るとすぐに白矢薬師、ここが中筋構居(なかすじ)の地とも伝わっています。
   
   
「白矢薬師」

孝謙天皇の時代、行基菩薩が諸国を巡る途中、数千の白羽の矢を射るような光を放っている尊像を見ました。

里人はありがたく思いここに建てたのが白矢堂です。

この本尊は中筋構居主・曽根藤四郎義宗の守仏とも伝わっています。
 
  
白矢薬師と同じ場所にある神社です。

中筋構居の正確な場所はわからないけど、少し西にある願正寺(曽根氏の菩提寺)の東側とも云われています。

ここから東へ行くと「石の宝殿」、この地では三木城の話は出てくると思ったけど、南北朝時代も出てきたよ。

その時代の複雑さを知りたいから、真面目に誰と誰がどちらで、とかいった表と地図を作ってみようかな。
    

    
南北朝時代の観応三年(1352)、足利尊氏と弟・直義の争いは直義が毒殺されて幕を閉じました。

文和三年(1354)、尊氏の子・義詮は南朝方に対抗する為に京都の東寺に陣を構えます。

南朝方の楠木正成の次男・正儀は尼崎から、北畠顕房は大和から、山名時氏・師氏父子は鳥取の伯耆から京都への進撃を開始しました。

一時は敗れた山名軍は、足利直義の子・直冬(尊氏の養子)を擁して再び伯耆から京都に進むと、河内から楠木正儀も京都山崎の男山(石清水八幡宮)を占領して京をうかがいました。

これに対して、尊氏は後光厳天皇を奉じて近江の武佐寺へ逃れると、義詮は佐々木道誉・赤松則祐軍を率いて山崎の西、神内(大阪府高槻市)に陣を構えました。

この神内合戦で尊氏方は直冬を破り、その時赤松軍として参加していた曽根藤四郎義宗が中筋構居主です。

天正六年(1578)、秀吉による三木城攻めの時、末裔の曽根藤市郎は別所氏の幕下として一族とも三木城に立て籠もるのですが、三木城開城の前に自刃するのです。

『参考文献を参照』

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