兵庫県たつの市揖保町中臣 | |
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姫路・太子龍野バイパスを西へ、阿曽ランプを過ぎて終点、そのまま2号線を走り、「西溝交差点」から北へ曲がります。 街中を通ると丘には中臣印達神社、その山頂には中臣城(なかとみ)がありました。 |
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南から上ると神社、境内には「粒丘」の碑がある。 西には揖保川、「播磨風土記」、その中では揖保丘とある。 今ではタンクが造られ、昔なら丁度、館に見えたのかな。 |
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「中臣印達神社(なかとみいだて)」 スサノオノミコトの子・五十猛神(いたけるのかみ)を祀っています。 父のスサノオと新羅に居て、船で出雲に帰る時、沢山の樹木の種を持っていました。 種を全国に植えたので、日本は木が沢山できました。 今では、林業の神として崇拝され、また困った時の神頼の神社として多くの人が参拝しています。 |
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「粒座天照神社」 川を北へ上ると「たつの市」、樋山城には同じ名前の神社があったよ。 大陸から天日槍(あめのひぼこ)の軍勢が播磨に攻めてきた時、 出雲の伊和大神は、ご飯を食べようとしてあわてて米粒をこぼした。 そこで粒の丘(いいぼのおか)、揖保の地名がついたと書いている、知っていることに出合うと面白いよね。 |
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嘉吉の頃、赤松円心の子・範資(七条家)の五代後・政資が城主で「嘉吉の乱」で中臣城も落城したとあります。 応仁の頃、身を隠してした政資が赤松政則を援けて武功を挙げたとも、赤松則勝が政則を援けて築城したともあります。 この政資と則勝は赤松満弘の子で兄弟、応仁の頃には則勝が中臣城主だった云われています。 この政資の子・義村が政則の養子となって、二代目・置塩城主になるんだね。 則勝は五代目・則房の子とあるけど、かなり時代が後だから異なる人物かな。 ましてや赤松満弘は範資の孫だから、よく分からない系図になってしまうね。 永正年間(1504-69)、範長が居城し、天文年間(1532-54)には英賀城主・三木氏に攻められて落城しています。 『参考文献を参照』 |
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