兵庫県加古川市野口町野口 | |
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加古川バイパス、「加古川東ランプ」で降りて、南の国道2号線を西へ「野口バス停」手前の信号を北へ入ると「教信寺」があります。 この辺りに、秀吉の三木城攻めで最初に落ちた野口城(のぐち)があります。 |
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「野口城址を祀る神社」 教信寺の東側の道を少し北へ入った所にあります。 昔からなぜか野口城の名前は知っていたけど、国道2号線の南側だと思い続けていたよ。 軒の所には野口城址の事が書かれているよ。(屋根の下) |
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「野口神社」 教信寺から少し東にあります。 野口城の本丸跡がどこかは、正確には分からないそうです。 80m×40mの田地で、周囲が沼田で囲まれたところだったらしいよ。 この神社の裏の竹林の中に何かある。 と一瞬見えたけど。 石積みのような気がした。 と思ってしまうよ。 |
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「教信寺」 平安時代の教信上人の庵の跡に建てられました。 教信上人は、念仏を唱え、旅人や農民を助けて「荷送り教信」とか「阿弥陀丸」などといわれ親しまれていました。 野口城攻めの時に全て焼かれ、元和年間(1615-23)に再興されています。 平成7年(1995)、阪神淡路大地震で壊滅的な破損を受け、平成15年5月と言えば、ごく最近復興されたのです。 |
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天正六年(1578) 二月、羽柴秀吉は糟谷武則の加古川城に播磨の諸豪族を集めて、毛利討伐の軍議を開きました。 この時、三木城からは別所長治の叔父・吉親と家老・三宅治忠が代理として参加しています。 この軍議の後、別所長治は信長に叛旗を翻し、戦うことを周囲の諸氏に伝えました。 志方城主・櫛橋左京亮、神吉城主・神吉民部少輔、淡河城主・淡河弾正忠、高砂城主・梶原平三兵衛、端谷城主・衣笠豊前守、そして野口城主・長井四郎左衛門らは三木城に人質を出して別所氏に従うことを誓いました。 四月、三木城は秀吉に包囲される中、秀吉軍へ夜襲を行う作戦を属城に伝えるため、三木城から出た使者は加東郡河合から加古川を下り、高砂城・野口城・神吉城・志方城へと伝え、一斉に秀吉陣に攻撃をしかけたのが三木合戦の始まりです。 秀吉は三木城を見下ろすことができる平井山に陣を構えて包囲を固め、糧道を断つ兵糧攻めの作戦をとりました。 そして、加古川、印南、室山、国包、鳥町、平田のほか東条街道にも附城を構え、まずは野口城から攻めたのです。 野口城の周囲は沼田で、敵味方が泥中で戦いました。 秀吉は雑草や青麦を刈りとらせ、沼や堀を埋め、この辺りを平地にして三日三晩攻め続け、ついに野口城主は降伏したのです。 『参考文献を参照』 |
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