兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田 | |
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夢前川の西側に書写山ロープウェイが見えてきます。 そのまま北へ塩田温泉まで行くと行き過ぎで、手前の宮置交差点を東に入り、橋を渡って対岸を1kmほど行くと置塩城(おきしお)の登山口があります。 |
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足利尊氏を援護した赤松円心、嘉吉の乱の事件を起こした満祐、そして再興への道を歩んだ政則。 中世動乱を生き抜いた播磨赤松物語、今は淡い夢のみ語り継ぐ、一族最後の城跡なのです この標高370m通称城山へ入り口には、「山頂まで十八丁」の標識があります。 前期赤松氏は白旗城、感状山城や城山城で、探索を始めて一番最初に訪れたのが、赤松氏最後の置塩城だったのです。 「兵庫県のお城」の最後に、もう一度訪れてみたいと思います。 |
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「やっと十丁」 この日は、寒くて登るにつれて雪とミゾレです。しかしまだ十丁、くたくたです。 それに1人だから心細く、山頂に石仏が並んでいたらどうしよう、と思いながらも登る決心を固めました。 |
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「三の丸跡」 この置塩城は、秀吉の姫路城築城の資材に使われ、姫路城の「トの一門」といわれています。 姫路城に行った時にじっくりと見たいと思います。 発掘調査をしているらしく、ビニールシートがあちこちにありました。 でも人はいませんでした。 |
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この城は2つの山頂を持ち、標高370mに「本丸」を置き、349mには「二の丸跡」があります。 二の丸の北側に「馬場」(掘割り)を隔てて「三の丸」が置かれています。 ところどころに石垣が見られます。 本丸と二の丸の跡から出土した「瓦」が、調査の注目になっています。なぜなら、城郭に瓦が使われはじめたのは安土城が最初とされているからです。 |
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「本丸」への途中には、削って平坦にした帯曲輪があります。 | |
山頂の本丸跡です。やっと着いた感じです。ほっとしました。 1人きりです。 山城探索の試練は「寒い日でも行く」、「1人でさびしくても行く」です。 でも気をつけてください。 |
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赤松満祐の「嘉吉の乱」後、幕府追討軍に囲まれた「城山城合戦」での一族自決の時、赤松家再興を託して弟・義雅の一子千松丸(時勝)は脱出に成功しました。 時勝は近江で身を隠し、亡くなる直前に法師丸を授かりました。 この法師丸が赤松家を再興させた後の赤松政則なのです。 赤松家の衰退後の播磨・備前・美作は戦功により、山名氏が全て領有していました。 細川氏も参戦したにもかかわらず、この一方的な論功行賞が後の「応仁の乱」(1467〜1477)勃発の一因になっているといわれてます。 最初は、細川勝元と但馬の此隅山城・山名持豊(宗全)との間で、将軍後継をめぐる争いでしたが、細川勝元が山名氏に恨みを持っている赤松政則を呼び寄せて、播磨に下向させ山名氏を討たせたのです。 この時、利神城・別所氏、上月氏、柏原氏、得平氏、英賀城・三木氏、金鑵城・中村氏の旧赤松家残党も参戦しました。 山名氏は家臣の竹田城・大田垣氏に赤松氏征伐を命じましたが、勝敗がつかないまま太田垣氏は但馬に撤退してしまいました。 その後、山名氏撃退により、政則は播磨守護に任じられ、姫路城を本拠としましたが、当時はまだ山名氏の影響が強く、但馬方面に対処するために、ここ置塩城を新しく築き本拠としました。 二代目は赤松義村です。この義村の後見となった備前の三石城主・守護代浦上村宗は、その立場を利用して義村を室津城に幽閉し暗殺してしまいますが、三代目・義村の子晴政は、逆に村宗を「天王寺合戦」で倒したのです。 しかし今度は出雲の尼子晴久が播磨に侵攻し、晴政は一旦摂津に逃げています。 尼子氏は二年で撤退し、晴政は再び播磨に帰国したのですが、すぐに死去してしまいました。 四代目は義祐、五代目は則房が継ぎますが、五代目が最後の城主となるのです。 それは秀吉の播磨攻めで秀吉側に付いたからです。 赤松十七代に渡る播磨の想いは、ここ置塩城とともに語り継がれていくのです。 『参考文献を参照』 |
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