落葉山城

兵庫県神戸市北区有馬町

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阪神高速北神戸線へ、「しあわせの村」を過ぎて「有馬口」を降りてから、51号線を東へ走るとすぐに有馬温泉街に入ります。

日本最古の有馬温泉、その温泉街を見下ろす標高533mの山頂には落葉山城(おちばやま)があります。
     
     
有馬城や湯山城とも呼ばれる落葉山城、日本書紀に出てくる日本最古の有馬温泉にあるんだよ。

南北朝時代、南朝に味方した湯山左衛門三郎が最初に築いたお城と云われています。
  
  
紅葉シーズン、有馬は見所として有名。 だから朝早く来たよ。

観光案内所から細い坂を入って右に駐車場、この細い道に入る時、まさかこの道へ入るのと思うよ。

大きな駐車場に止め、前日からの温泉泊まり客の記念写真を頼まれながら、案内所の奥にある登山口に来たよ。
    
   
「もみじ」、変換すると「紅葉」なんだね。 恋人たちが一枚一枚集めては、何かを話してる。

落ち葉は不思議、何の為に落ちるのかな。 きっと冬が来る前に話がしたいから。
   
   
有馬の街に響く子供の声も小さくなると山頂に着く。

妙見寺の石段を見上げる、紅の葉は真上から照らす光を通すんだ、透けて見えるよ。
     
   
「妙見寺」

お寺の裏側、総けやき造りで垂木が扇型、ます型と呼ばれる組み方なんだ。

ここが落葉山城の本丸があった所、有馬や三田まで見えるよ。

ベンチに一人、西宮市から来られた人が地図を眺めている。

ここから灰形山、湯槽谷山そして六甲山まで行くらしい。 「行きたいね」と話して、妙見寺を一周したよ。
   
   
「六甲山へ」

降りようかな、その人はベンチに座ったまま、便箋に何かを描いてる。

「地図描いたよ」

そこには便箋2枚に六甲山までの山々の道が細かく描かれている、有馬温泉の地図もいただいた。

そして「また会えたらいいね」と登山道の中へと姿を消した。 
   
   
「灰形山へ」

妙見寺から4kmぐらいで六甲山の最高峰、「行きたい」。

少し迷ったけど、行くことにした。 岩場の道、何とか一つ目の標高619m灰形山を越えた。

ここから降りたら六甲有馬ロープウェイの「有馬駅」へ、でも通行止め。 まっすぐ湯槽谷山を目指した。
  
 
「湯槽谷山かな」

次は標高801mの湯槽谷山、一段一段の丸木の階段が辛らすぎる。

今年こそは六甲縦走56kmと友人に言ったけど、そろそろ話題にしないようにするよ。

山頂手前まで登った時、もう一枚の地図を見た「赤いポスト」、気になるね。 
   
  
という訳で、あっという間に有馬温泉街に戻った。

「ねがい坂」はどの坂なのかな、願いごとがいっぱいあるからね。

京都、奈良、広島、島根に行きたい願いごと、もっと他に願う事はないのか、と言われそう。

あるけど、「願いごと」は言わないから「願いごと」なんだ。
   
    
「温泉寺」

大已貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が有馬に来た時、三羽の傷ついたカラスが水たまりで水浴をしました。

数日でその傷が治り、その水たまりが温泉になったと伝わっています。

ここは奈良時代に僧行基が開いたお寺、鎌倉時代には仁西上人が十二の宿坊を建ててから有馬温泉は有名になったよ。
   
   
石垣がある、秀吉時代に造られたらしい。

石垣の上は曲輪で、周囲には多門塀があって隅櫓の跡も確認されているよ。

まさかここで石垣に出会うなんて、ほんとうれしいよ。 
   
   
「念仏寺」

このお寺の前には「太閤秀吉・北政所館跡(太閤小城跡)」とある。

ここは秀吉の正室、北の政所・ねねの別邸跡だった、そして有馬には「太閤さんの湯殿がある」といわれていた。 
   
   
赤いポストに陽がかげる頃、季節の風は落ち葉色で染まるかな。 
   

  
有馬温泉なので有馬氏のことを書きます。

播磨の赤松円心の子・則祐が赤松家の総領家となり、則祐の子に義則・時則・満則・義祐がいます。

義則が播磨・備前の守護職に任じられると、義祐が守護代として有馬から3kmほど北西の有野城に入り、有馬氏を名乗りました。

嘉吉元年(1441)、赤松満祐が足利義教の命を奪い播磨の城山城に籠もると、阿波守護・細川持常を総大将に赤松貞村、満政、そして二代目・有馬持家は幕府追手軍として城山城を攻め落とすのです。

応仁元年(1467)、八代将軍足利義政には跡継ぎがなく義視を養子とした時、六代・有馬元家は義視に近づき、赤松総領家を有馬家に譲るように頼みました。

しかし足利義政と日野富子の間で義尚が生まれ、義視と義尚の後継者争いから始まったのが応仁の乱、そして有馬元家は赤松政則によって命を奪われています。

文明九年(1447)、11年間続いた応仁の乱は、細川政元と山名政豊が和睦して終焉を迎え、足利義尚の時代になると斯波義良、畠山尚順、細川政元が幕府三管領、七代・有馬則秀は御供衆という職位に付いています。

そして細川政元は十代将軍・足利義稙を追放して政治の主導権を握っていくのです。

しかし細川政元が澄之・澄元・高国を養子にもらったことが細川家を二分していくのです。

八代・有馬澄則は細川政元に付いていたのですが、政元が澄之に暗殺されると、澄元に付いて、細川高国方の越水城主・瓦林政頼、伊丹城主・伊丹国扶や塩川孫太郎らと戦うのです。

この時、澄元は高国・大内義興連合軍に敗れて四国阿波に逃れました。

永正十六年(1519)、九代・有馬村則は阿波で復活した細川澄元に付いて、細川高国や瓦林政頼と戦い、今度は高国が近江へ敗走しています。

しかし高国は佐々木六角定頼の援助で再び京へ上りると、細川澄元は阿波へ逃れ、その上家臣・三好之長も戦死するのです。 そして有馬村則も高国方に従うことになりました。

三好之長の甥・政長がこの落葉山城を本拠として播磨・丹波に勢力を伸ばそうとした時、三木城主・別所直家が落葉山城を攻撃し、三好政長は敗走し、代わって三田城を本拠とした十代・有馬村秀が入りました。

天正七年(1579)、有馬加賀守(十二代・国秀?)は織田信忠軍に攻められ落城、国秀には子がなく有馬家嫡流も断絶するのです。

やっぱり細川氏、三好氏が登場すると分からなくなるね、すみません。(四国への修行が必要とみた)

『参考文献を参照』

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