男山構居

兵庫県姫路市山野井町男山

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姫路城の姫山からすぐ北西、標高58mの山頂には男山構居(おとこやま)があります。

「播磨風土記」の頃、姫路の街は海だった。 船から落ちた蚕子(ひめこ)が流れ着いたのは姫山。 江戸時代、逃げ込んだのは男と女、そんなページもあるんだね。
   
   
船に乗った大汝命(おおなむぢのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)の父子は八丈岩山に乗り付けました。

子の火明命はあまりに手をやくので、父は子を置いて船を出すのです。 火明命は怒って風を起こし船を難破させた時、14の丘に荷物を落しました。

その一つ、箱が落ちたところが箱丘、今の男山なのです。
 
  
「男山八幡宮」

元弘三年(1333)、後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよし)の鎌倉幕府倒幕の呼びかけで、赤松円心は姫山に始めて砦を築きました。

貞和二年(1346)には長男・貞範に守らせ鎮守として建てたのが男山八幡宮です。
    
   
「千姫天満宮」

延宝七年(1679)、姫路城主・松平直矩(なおのり)が寄進した鳥居です。 姫路城主は変わり過ぎて、分からないよね。

池田氏、本多氏の次が松平氏だよ。 それから榊原氏、酒井氏で終わり。 
   
   
千姫は徳川二代・秀忠の子供、七歳で豊臣秀頼に嫁ぐんだ。

大阪夏の陣で豊臣家は滅亡、燃える大阪城から坂崎出羽守が救い出したよ。

この坂崎出羽守は宇喜多直家の弟・浮田忠家の子の詮家だよね。(岡山県の富山城を見てね)

でも千姫は本多忠刻と再婚するんだよ。 
   
   
男山からすぐ東南には姫山が見える、江戸時代の「飾磨のかち染」という話。

旅の男が長者屋敷から難をのがれてきたました。 男と一緒に逃げてきたのは女。

男が逃れたのが「男山」、女が逃れたのは「姫山」、その後の話は分からない。

分からないのが男と女の物語、分からないからページをめくってしまうのかな。 
   

    
室町時代、足利氏は将軍家と鎌倉公方に分かれていました。 四代将軍・義持が世を去ると、五代・義量も若くして亡くなりました。

鎌倉公方の足利持氏は次の将軍を狙っていたのですが、くじにより義教が六代将軍に就くのです。

こうして京都と鎌倉の足利家の仲は悪くなり、持氏は子に「義久」と名付けたことから、義教は持氏を討つのです。(永享の乱)

永享十二年(1440)、その後の関東では上杉憲実が勢力を持ち始めました。

しかし上杉氏に対抗する茨城県の結城城主・結城氏朝は足利持氏の遺児・春王丸と安王丸を擁立して茂木城(栃木県)で兵を挙げるのです。

この乱で幕府の足利義教は結城氏追討の命令を出し、播磨の赤松満祐も地方豪族を動員するのです。

しかし男山構主・山野新藤次成明と十三人はその命令に従わず、追放されました。

嘉吉元年(1441)、その赤松満祐が足利義教の首を捕ると、幕府の追討軍は赤松氏を滅ぼしました。

山名宗全が姫路城主になると男山には畑七十郎が入りました。

『参考文献を参照』

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